メッセージ - 人の知恵と賢さをむなしくされる主(2サムエル記17:1-14)
人の知恵と賢さをむなしくされる主(2サムエル記17:1-14)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-9-25 19:26
人の知恵と賢さをむなしくされる主(2サムエル記17:1-14)
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アヒトペルは、アブシャロムにダビデのめかけ達と公然と寝るよう助言し、ダビデを大いに侮ってアブシャロムに味方する者たちの士気を大いに上げたが、彼は間髪を入れずに、次の助言をする。
『「わたしに一万二千の人を選び出させてください。わたしは立って、今夜ダビデのあとを追い、彼が疲れて手が弱くなっているところを襲って、彼をあわてさせましょう。そして彼と共にいる民がみな逃げるとき、わたしは王ひとりを撃ち取り、すべての民を花嫁がその夫のもとに帰るようにあなたに帰らせましょう。あなたが求めておられるのはただひとりの命だけですから、民はみな穏やかになるでしょう」。この言葉はアブサロムとイスラエルのすべての長老の心にかなった。』(2サムエル記17:1-4)
つまり、ダビデは今、とても意気消沈し疲れているから、この機を逃さずに急襲しましょう、今ならやすやすと攻め落とせるでしょうから、と。
これは実際、「良い計りごと」だった。(14節)
ダビデ達は実際、心も体も疲れていたし民を連れていて無防備状態である。この機に攻め込まれたなら、ひとたまりもないだろう。
しかし、全ての人のいのちを司る主は、ダビデを守る事が御心であった。
なぜなら、ダビデは主を敬い主に依り頼んでいたのに対し、アヒトペルとアブシャロムは、主と御言葉とを、軽んじていたからだ。
主は、知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを、むなしいものにされる。(1コリント1:19)
アヒトペルがせっかく”良い計りごと”をしたのに、アブシャロムは、余計な提案をする。それも、どれ程余計だったかというと、彼の生死を分けてしまう程の。
『そこでアブサロムは言った、「アルキびとホシャイをも呼びよせなさい。われわれは彼の言うことを聞きましょう」。』(2サムエル記17:5)
アブシャロムは、ホシャイにも伺おうと言って彼を呼び出すのだが、ホシャイはダビデから遣わされたスパイである。
アブシャロムの提案は、ダビデ達にとって有利な、そして自分達にとって不利な事だった。
『ホシャイがアブサロムのもとにきた時、アブサロムは彼に言った、「アヒトペルはこのように言った。われわれは彼の言葉のように行うべきか。いけないのであれば、言いなさい」。』(2サムエル記17:6)
ホシャイはアヒトペルの計りごとを聞いて慄いただろう。
もし彼の計りごとが速やかに遂行されるなら、今、無防備なダビデ達は、ひとたまりもないだろう、と。
そこでホシャイは、ダビデ達にとって有利で、なおかつ、聞く人全てを納得させるような計りごとを立てる。
『ホシャイはアブサロムに言った、「このたびアヒトペルが授けた計りごとは良くありません」。ホシャイはまた言った、「ごぞんじのように、あなたの父とその従者たちとは勇士です。その上彼らは、野で子を奪われた熊のように、ひどく怒っています。また、あなたの父はいくさびとですから、民と共に宿らないでしょう。彼は今でも穴の中か、どこかほかの所にかくれています。』(2サムエル記17:7-9a)
ホシャイは、アヒトペルとは真逆の解釈を展開する。
すなわち、ダビデは疲れて意気消沈しているのではなく、アブシャロム達が自分達をはずかしめた事によって、子を奪われた熊のように怒り心頭である、そして、戦いに熟練したダビデなら、きっとアブシャロム達の虚を突いて、少なからぬ被害が出るだろう、と。
『もし民のうちの幾人かが手始めに倒れるならば、それを聞く者はだれでも、『アブサロムに従う民のうちに戦死者があった』と言うでしょう。そうすれば、ししの心のような心のある勇ましい人であっても、恐れて消え去ってしまうでしょう。それはイスラエルのすべての人が、あなたの父の勇士であること、また彼と共にいる者が、勇ましい人々であることを知っているからです。』(2サムエル記17:9-10)
続いてフシャイは、アブシャロムの内にあるわずかな心配を、巧妙に突く。
アブシャロムは、策略家であったかもしれないが、戦いには熟練していない。
いかに今はおとなしいダビデとは言え、子はどこかしら、父の怒りに対する恐れを持っているものである。
『ところでわたしの計りごとは、イスラエルをダンからベエルシバまで、海べの砂のように多くあなたのもとに集めて、あなたみずから戦いに臨むことです。こうしてわれわれは彼の見つかる場所で彼を襲い、つゆが地におりるように彼の上に下る。そして彼および彼と共にいるすべての人をひとりも残さないでしょう。もし彼がいずれかの町に退くならば、全イスラエルはその町になわをかけ、われわれはそれを谷に引き倒して、そこに一つの小石も見られないようにするでしょう」。』(2サムエル記17:11-13)
いかに戦いに長けたダビデとは言え、圧倒的多数での物量作戦に出るなら、ひとたまりもないだろう、と。
しかも、アブシャロム自らが陣頭指揮を取って、大軍を率い勝利する。それはアブシャロム自身のプライドをくすぐる作戦でもある。
『アブサロムとイスラエルの人々はみな、「アルキびとホシャイの計りごとは、アヒトペルの計りごとよりもよい」と言った。それは主がアブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められたからである。』(2サムエル記17:14)
そう、本当なら、ホシャイよりもアヒトペルの計りごとのほうが、良かったのだ。
しかし、アヒトペルの計りごとを虚しいものにしたのは、主である。
「主が」アブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められた・・・。
久しぶりに、主ご自身が働かれた記述を見た。
主のわざはそれまで、人間の罪やはかりごとによって、表に出られない状態だった。
人が自分の力、自分のはかりごとを巡らしてそれを通そうとしている内は、主の力は働かれない。
『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)
主は、ダビデのたった一言の祈り、「主よ、どうぞアヒトペルの計略を愚かなものにしてください(15:31)」に応え、動き出された。
自分の力や計りごとを全て主の前に投げ出し、主に祈る事こそ、主の力を引き出す鍵である。