メッセージ - 勝っても負けても悲しみしか無い戦い(2サムエル記18:1-8)
勝っても負けても悲しみしか無い戦い(2サムエル記18:1-8)
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主がダビデを助ける人々をちょうど良い時に遣わして下さったお陰で、ダビデは、物資面でも、人においても、物事においても、必要な助けを得て、迫ってくるアブシャロムに対し態勢を整える事が出来た。
『さてダビデは自分と共にいる民を調べて、その上に千人の長、百人の長を立てた。そしてダビデは民をつかわし、三分の一をヨアブの手に、三分の一をゼルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイの手に、三分の一をガテびとイッタイの手にあずけた。』(2サムエル記18:1-2)
ヨアブとアビシャイは、かねてから軍団長として活躍していたが、ダビデはさらに、ガテ人イッタイも軍団長として採用した。
ガテ人イッタイがダビデを慕ってエルサレムに来た時、その次の日にダビデは都落ちしてエルサレムを出て行ったにもかかわらず、ダビデについて行くという誠実を示した。
『こうして王は民に言った、「わたしもまた必ずあなたがたと一緒に出ます」。しかし民は言った、「あなたは出てはなりません。それはわれわれがどんなに逃げても、彼らはわれわれに心をとめず、われわれの半ばが死んでも、われわれに心をとめないからです。しかしあなたはわれわれの一万に等しいのです。それゆえあなたは町の中からわれわれを助けてくださる方がよろしい」。王は彼らに言った、「あなたがたの最も良いと思うことをわたしはしましょう」。』(2サムエル記18:2b-4)
ダビデはかつて、皆が戦いに出ている間、彼だけは王宮に残り、夕暮れ時に目覚めて、女性が体を洗っている姿に欲情を燃やし、彼女が人妻であるにも関わらず姦淫し、その夫を殺すという罪を犯したが、もう、その時のダビデとは違っていた。
ダビデは元々、戦いの時は、人々の先頭に立って戦いに出ていたものだが、そのダビデに戻っている。
ダビデは今回、いのちをかけて戦いに出る彼らと、一緒に行きたかったのだが、人々はそれを許さなかった。
なにしろ今回の戦いは、相手が狙うのは領土や金銀ではなく、ダビデただ一人の命であり、ダビデさえ死ねばアブシャロムのクーデターが成功するのだから。
『王はヨアブ、アビシャイおよびイッタイに命じて、「わたしのため、若者アブサロムをおだやかに扱うように」と言った。王がアブサロムの事についてすべての長たちに命じている時、民は皆聞いていた。』(2サムエル記18:5)
ダビデはもしかすると、アブシャロムがアムノンを殺して逃亡して以来、ずっとアブシャロムを気にかけ、心配していたのかもしれない。
そもそも、ダビデがアブシャロムに命を狙われるようになったのは、彼の身から出た錆的な所が大きい。
ダビデは、姦淫と殺人という「いのち」に対する罪を犯した故に、彼の身から生まれた「いのち」達から間接的に反撃を受け、自分の身内を性的に辱めたり、殺したり、クーデターを起こされたりしたのだ。
つまり、ダビデが犯した「いのち」を冒涜した罪の報いの道具として、自分の子が用いられてしまったのだ。
そして、もし「子」が、親であるダビデに対して反逆したり、性的にしてはならぬ事をしたりするなら、その刈り取りは当然、それを為した「子」が受けなければならない。
父・ダビデとしては、自分の子から実際的に命を狙われたり、また、子が犯してしまう罪のゆえに、子がその滅びの刈り取りをしなければならない事とに、心が引き裂かれる思いだっただろう。
だからダビデは、戦いに出て行く人々に、アブシャロムを穏やかに扱って欲しい、と懇願するのだが、しかし人々からすれば、アブシャロムは王に反逆した敵であり、一刻も早く倒したい相手だった。
ダビデにとっては、勝っても負けても痛みを伴う、実に複雑な状況である。
こうして戦端は切って落とされたが、主はダビデに有利に働かれた。
『民はイスラエルに向かって野に出て行き、エフライムの森で戦ったが、イスラエルの民はその所でダビデの家来たちの前に敗れた。その日その所に戦死者が多く、二万に及んだ。そして戦いはあまねくその地のおもてに広がった。この日、森の滅ぼした者は、つるぎの滅ぼした者よりも多かった。』(2サムエル記18:6-8)
ダビデの軍の剣によって滅んだ者よりも、森によって滅ぼされた者が多く出た、という事は、主がダビデに味方し、アブシャロムに敵対された、という事に他ならない。
ダビデとしては、勝っても負けても心痛い戦いだっただろう。
しかし主は、人の思いを遥かに超えた最善が何であるかをご存知であり、ただ、神の正しい義のみを遂行される。