メッセージ - 華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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- 執筆 :
- pastor 2015-10-1 23:40
華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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アブシャロムは非常に美しく、頭も切れ、人々の人気を得、”華々しく”父ダビデ王にクーデターを起こしたが、その最後は、あまりにあっけなく、実に呪われた有様だった。
『さてアブサロムはダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。騾馬は彼を捨てて過ぎて行った。』(2サムエル記18:9)
アブシャロムは髪の毛がとても豊富で、彼の美を誇るものであったが、その髪が災いした。
彼は彼の乗っていた動物によって木に吊るされ、ぶら下がったままの姿を、敵の面前に晒す事となった。
木に吊るされた者は「神に呪われた者」と記されている。(申命記21:23、ガラテヤ3:13)
それは、天と地の間に宙吊りにされる事により、天からも地からも見放された者、という意味らしい。
まさに、神がアブシャロムをその状態へと導いた、と言えるだろう。
なにしろ彼は、自分から呪われるべき事をしたからのだから。
『『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:16,20)
『ひとりの人がそれを見てヨアブに告げて言った、「わたしはアブサロムが、かしの木にかかっているのを見ました」。ヨアブはそれを告げた人に言った、「あなたはそれを見たというのか。それなら、どうしてあなたは彼をその所で、地に撃ち落さなかったのか。わたしはあなたに銀十シケルと帯一筋を与えたであろうに」。』(2サムエル記18:10-11)
ヨアブに報告をもたらした人は、ダビデの「アブシャロムを穏やかに扱うように」という命令を聞いていたので、当然ヨアブはあの状態のアブシャロムを穏やかに扱うものだろう、と思って報告したのであろうが、ヨアブはあたかも、アブシャロムは殺して然るべしであるかのように答え、しかも「どうしてあなたは殺さなかったのか」とまで言われてしまった。
かの報告した人には、王の命令を聞き従う心はあったが、ヨアブには王の命令を聞く心は無く、血を流すのに早かった。
それ故彼は、人から血を流される者となってしまう。
『そこで、ヨアブは「こうしてあなたと共にとどまってはおられない」と言って、手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。・・・人々はアブサロムを取って、森の中の大きな穴に投げいれ、その上にひじょうに大きい石塚を積み上げた。そしてイスラエルはみなおのおのその天幕に逃げ帰った。』(2サムエル記18:14-17)
これが、かのアブシャロムの最後である。
彼は木にかけられ、槍で刺され、寄ってたかってなぶりものにされ、その死体は王の墓に丁重に葬られず、誰も通らないような密林のほら穴に投げ込まれ、そこを大きな石くれの山で塞がれてしまった。
いかに若く美しく、はかりごとに長け、華々しく、勢いがあろうとも、主が「これをしてはならない」と言われた事を率先してするような者の最後は、実に呪われたものなのだ。
『さてアブサロムは生きている間に、王の谷に自分のために一つの柱を建てた。それは彼が、「わたしは自分の名を伝える子がない」と思ったからである。彼はその柱に自分の名をつけた。その柱は今日までアブサロムの碑ととなえられている。』(2サムエル記18:18)
14章を見ると、彼には3人の息子がいたはずだった。
彼が畑に火を放ってまで父ダビデと会おうとしていた14章の時は、まだ、子供達は健在であったのだろう。
しかし、父ダビデに反逆をはじめて以降、その3人は、死んでしまったのだろう。
アブシャロムは神の国イスラエルで王を名乗ったからには、率先して父に逆らうという御言葉への反逆をするとしたなら、神が黙っていないのだ。
きっとアブシャロムがした事で神に呪われ、子のいのちまでも呪われてしまった事を、全イスラエルは聞いて、震えおののいただろう。
『もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。』(申命記21:18-21)
ここの「身持ちが悪い(ザラェル)」の原意は、ぶらぶらする、放浪ぐせがある、おお喰らい、役立たず、の意味があり、また、「大酒飲み(サバァ)」の原意は、がぶがぶ飲む、酔っぱらい、の意味がある。
子がわがままで手に負えず、親の言葉に従わず、あれもこれも自分のものにしようと貪欲で、懲らしても聞かない、という事なら、長老達にこのように報告してから、石て撃ち殺しなさい、そうして、これを聞く人全てが恐るようにしなさい、と、律法に記されている。
私達は、祝福を受けるためにも、父母を敬うべきである。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
従うべき権威には順序があって、ここに記されている通り、「主にあって」両親に従うべきである。
もし父母が、主と主の御言葉に反する事を押し付けて来るなら、敬いの心は持ちつつ、諭すべきである。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした以外の事であれば、両親に服従すべきであり、それをするなら、主が約束しておられる通りに幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
私達はアブシャロムとは真逆の、祝福の王道を歩んでいきたい。