メッセージ - ゲラの子シムイに対するダビデの対応(2サムエル記19:16-23)
ゲラの子シムイに対するダビデの対応(2サムエル記19:16-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-10-7 23:50
ゲラの子シムイに対するダビデの対応(2サムエル記19:16-23)
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メッセージ音声
ダビデ達が、逃亡先のマハナイムから、首都エルサレムへと帰還するにあたり、彼らを真っ先に迎えに来たのは、意外な人物であった。
『バホリムのベニヤミンびと、ゲラの子シメイは、急いでユダの人々と共に下ってきて、ダビデ王を迎えた。一千人のベニヤミンびとが彼と共にいた。』(2サムエル記19:16-17)
覚えているだろうか。ゲラの子シメイは、ダビデ達が悲しみの内に都落ちしている所に現れ、一行にさかんに呪いの言葉を吐きつつ、石を投げ続けた彼である。
彼は、千人のベニヤミン人を連れて来た、という事は、サウル家の中でも、かなりの力があったのだろう。
その彼は、今、真っ先にダビデの前に現れて、さかんに命乞いをしている。
『どうぞわが君が、罪をわたしに帰しられないように。またわが君、王のエルサレムを出られた日に、しもべがおこなった悪い事を思い出されないように。どうぞ王がそれを心に留められないように。しもべは自分が罪を犯したことを知っています。それゆえ、見よ、わたしはきょう、ヨセフの全家のまっ先に下ってきて、わが主、王を迎えるのです。』(2サムエル記19:18-20)
かつてシムイがダビデを呪い石を投げつけていた時、ダビデは言った。
『彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない。』(16:11-12)
ダビデは、泣きっ面の所に蜂が来たようなこの状況においても、主は必ず省みて善を報いて下さる、と信仰告白をした。
今、まさに彼が信じた通りに成っている。
私達も、主によって低くされている時は、忍耐しつつ御前でへりくだり、主は必ず最善を為して下さる、という期待と信仰を持ち続けるなら、主は丁度良い時に引き上げて下さり、呪った者を目の前に連れて来させ、ひれ伏させて下さるのだ。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:8-10)
『ゼルヤの子アビシャイは答えて言った、「シメイは主が油を注がれた者をのろったので、そのために殺されるべきではありませんか」。ダビデは言った、「あなたがたゼルヤの子たちよ、あなたがたとなにのかかわりがあって、あなたがたはきょうわたしに敵対するのか。きょう、イスラエルのうちで人を殺して良かろうか。わたしが、きょうイスラエルの王となったことを、どうして自分で知らないことがあろうか」。こうして王はシメイに、「あなたを殺さない」と言って、王は彼に誓った。』(2サムエル記19:21-23)
ダビデは、この者に復讐したい気持ちは、あったかもしれない。
しかし、彼は誰よりも先にダビデを迎えに出て来た、というのもまた、紛れも無い事実である。
そんな彼を、無下に殺してしまったとしたら、王国の民の間で「真っ先に迎えに来た人を殺した」と、衝撃が走ったであろう。
そうなると、先にせっかくアマサへ示した憐れみの抜擢も、無に帰してしまう。
上に立つ者は、自分の感覚だけで生きてはならず、臣下の心を萎えさせたり、躓いたりしないように気をつけて生きなくてはならないのだ。
それ故、上に立たされた人は、主に知恵を求める必要がある。
シメイはこの時、確かにダビデに赦された。
しかし彼のような者は、表に出ない所でどんな陰口を流すか分かったものではないし、いつ手のひらを返して裏切るか分からない。
彼は、とてつもなく無礼な事をダビデにしたが、絶妙のタイミングで絶妙の事をしたため、赦され、命は救われた。
しかし、王権がソロモンへ改まった時、彼はソロモンの言葉どおりに徹しなかった故に、殺される事になる。(1列王記2:36-46)
ダビデは、赦しと憐れみに満ちた王である。
人の中には、その赦しと憐れみを逆手に取って、うまくやりくりする人もいるかもしれない。
しかし、やがて時が改まる時、闇に隠れていた事は全て光の内に照らされ、心の内に秘めていた事も全て露わにされ、正当なさばきが執行される。
これは、王の王であるキリストが再臨される時にも、同じである。
『だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。』(13:40-43)
私達は、シメイのような世渡り上手さを身につけなくても良いし、そのような者が跳梁跋扈している様を憂わなくて良い。
私達はただ、普段より、心から主に従い、またダビデのような愛と憐れみ、赦しのわざを、自分のものとして歩んでいるなら、全て人の企みや心を見透かされる主が、正しく報いて下さり、引き上げて下さるからだ。