メッセージ - バルジライに対するダビデの対応(2サムエル記19:31-40)
バルジライに対するダビデの対応(2サムエル記19:31-40)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-10-14 20:38
バルジライに対するダビデの対応(2サムエル記19:31-40)
Youtube動画
メッセージ音声
『さてギレアデびとバルジライはロゲリムから下ってきて、ヨルダンで王を見送るため、王と共にヨルダンに進んだ。バルジライは、ひじょうに年老いた人で八十歳であった。彼はまた、ひじょうに裕福な人であったので、王がマハナイムにとどまっている間、王を養った。王はバルジライに言った、「わたしと一緒に渡って行きなさい。わたしはエルサレムであなたをわたしと共におらせて養いましょう」。』(2サムエル記19:31-33)
バルジライは、ダビデ王が都落ちした時から勝利するまで、始終一貫、王への忠誠を示し、ダビデがマハナイムに留まっている間、ずっと王を養っていた。
王について行った人達は、少なくとも2000人以上いたはずである。
彼らを一日養うだけでも、かなりの食料や経費と労力がかかったであろうが、バルジライは全てをまかなっていたのである。
ダビデ王は、そんなバルジライに報いたいと思い、一緒にエルサレムに来るよう申し出たのだ。
人はそれぞれ、主から賜物(ただで受けた贈り物)が与えられている。
それはバルジライのように富であったり、能力であったり、霊的な力であったりするのだが、おのおのに与えられた賜物を用いて、主にある兄弟姉妹の不足を補いあい、そうして互いが一つとなって、キリストのからだを建て上げて行くのである。
バルジライは、主から与えられた「富」を我がものとせず、主にあって戦いを戦っているダビデ達を支えるために、喜んで供与した。このようにして、彼も主の働きに参加したのである。
神の国はこのように、主から「ただで受けたもの(賜物)」を互いに分け合い、補い合い、そうしてキリストのからだを建て上げて行くものである。
『わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。』(ローマ12:3-8)
ダビデは、自分達を助けてこんなにも良くしてくれたバルジライに、何とか報われて欲しいと願ったのだが、バルジライは、自分は老い先が短く、またあまりに年老いているため、せっかく美味なごちそうを頂いても、あるいは、せっかく男女の美しい歌声を聞いても、自分はもうそれらを味わう感覚が衰えてしまっている、そんな自分を招いてもらっても、ただ王の重荷になるだけです、と言って、丁重に辞退した。
バルジライはなんと慎ましい心の持ち主だろう。
ダビデが落ちぶれていた時は、冷たくあしらっていたのに、いざ、ダビデが隆盛を戻したとたんに、手のひらを返したかのように媚びて来たような人達は、大勢いた。
老い先が短く、味覚も聴覚も衰えているのに、自分ばかりが富をひとり占めにして、味わえもしないグルメ三昧したり、感性も無いのに芸術三昧しているような人は、多くいるかもしれない。
そんな中、バルジライは一切、見返りを期待する事なく、ただ、主に忠実なダビデを助けたい、という一心で、彼に与えられた富を分与し、それの報いを自分自身が受け取る事を辞退したのだ。
『どうぞしもべを帰らせてください。わたしは自分の町で、父母の墓の近くで死にます。ただし、あなたのしもべキムハムがここにおります。わが主、王と共に彼を渡って行かせてください。またあなたが良いと思われる事を彼にしてください」。王は答えた、「キムハムはわたしと共に渡って行かせます。わたしは、あなたが良いと思われる事を彼にしましょう。またあなたが望まれることはみな、あなたのためにいたします」。』(2サムエル記19:37-38)
このキムハムは、彼の息子であろう。
ダビデが死ぬ日が近づいた時、彼は跡を継ぐソロモンに、バルジライの子らに恵みを施すように特に指示をしている。(1列王記2:7)
後のバビロン捕囚の時代、ベツレヘム近くに「ゲルテ・キムハム(キムハムの宿所)」と呼ばれる土地がエレミヤ書で出てくるが(エレミヤ41:17)、もしかしたら、キムハムの子たちはダビデの故郷・ベツレヘム近くに土地を得て、その子孫達がバビロン捕囚の時まで生き残っていたのかもしれない。
『こうして民はみなヨルダンを渡った。王は渡った時、バルジライに口づけして、祝福したので、彼は自分の家に帰っていった。王はギルガルに進んだ。キムハムも彼と共に進んだ。ユダの民はみな王を送り、イスラエルの民の半ばもまたそうした。』(2サムエル記19:39-40)
かつては息子アブシャロムに卑しめられ、追われつつ渡ったヨルダン川だったが、今やダビデは栄誉を受け、同行する人数も非常に多くなっていた。
王の王であるキリストも、ダビデ王が経験したように、今は人々から卑しめられているように見えてはいても、やがては全ての敵を滅ぼし、天の軍勢を従えて来られる時が来る。
その時、ダビデの時に起こったのと同じように、人々は地上で為した行いに応じて、それぞれに報いが与えられる。
『人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。』(マタイ25:31-40)
バルジライは、ダビデが困窮した時、彼を訪ね、賜物として与えられていた富をもってダビデ達に食べさせ、宿を貸し、着るものを与えた。
彼も、メフィボシェテも、地上ではあまり報いられるという事がなかったが、彼の子孫は栄え、そして彼らの栄誉は、永遠の書物に記された。
この地上は、報いられるという事が少ないかのように見えても、主は必ず、永遠において報いて下さるお方なのだ。