メッセージ - よこしまな一言によって、簡単に分裂してしまったイスラエル(2サムエル記19:41-20:2)
よこしまな一言によって、簡単に分裂してしまったイスラエル(2サムエル記19:41-20:2)
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- 執筆 :
- pastor 2015-10-15 23:50
よこしまな一言によって、簡単に分裂してしまったイスラエル(2サムエル記19:41-20:2)
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エルサレムへ帰還するダビデを巡って、既に、色々な人間模様があるのを見ている。
ある人は、保身や命乞いのために、ある人は、本心からダビデの無事を喜んでダビデを迎えに来ていたが、今回見るのは、そのどちらでもない群衆達である。
すなわち、しっかりしたアイデンティティを持たず、ただトレンドや流行を追いかけるかのようにして、ダビデを迎えに来た人達である。
『さてイスラエルの人々はみな王の所にきて、王に言った、「われわれの兄弟であるユダの人々は、何ゆえにあなたを盗み去って、王とその家族、およびダビデに伴っているすべての従者にヨルダンを渡らせたのですか」。』(2サムエル記19:41)
イスラエルの人々がダビデに問い詰めている内容は、ダビデ王が帰還するに当って、なんで自分達を呼ばずにユダ族だけにダビデの帰還を世話させて、ダビデを「盗み去り」「独り占め」にさせたのか、と。
ダビデは、ただイスラエルに平和を戻したかっただけだ。
それまで、全イスラエルが担いでいたアブシャロムが、あっけなく討たれてしまい、右往左往していたイスラエルを、ダビデは一つにまとめるために、まずは、身内のユダ族に「ダビデをエルサレムへと戻しなさい」と指示を与え、そこからイスラエルに秩序を回復させようとしたのだ。
もしダビデが、自分を裏切ってアブシャロムに与した全イスラエルと和解する気が一切無かったとしたなら、アブシャロムの将軍だったアマサを、わざわざ自分の将軍に起用するなぞ、しなかったはずだろう。
ダビデはただ、イスラエルに平和を戻したかっただけなのだが、やましさの残っている群衆達は、別の思惑に流されていた。
『ユダの人々はみなイスラエルの人々に答えた、「王はわれわれの近親だからです。あなたがたはどうしてこの事で怒られるのですか。われわれが少しでも王の物を食べたことがありますか。王が何か賜物をわれわれに与えたことがありますか」。』(2サムエル記19:42)
ユダ族は、ダビデが返事する機会を奪って、平和ではない言葉でイスラエルに答えており、肝心のダビデの意図が不在のまま、集団と集団の争いが起こりつつある。
『イスラエルの人々はユダの人々に答えた、「われわれは王のうちに十の分を持っています。またダビデのうちにもわれわれはあなたがたよりも多くを持っています。それであるのに、どうしてあなたがたはわれわれを軽んじたのですか。われらの王を導き帰ろうと最初に言ったのはわれわれではないのですか」。しかしユダの人々の言葉はイスラエルの人々の言葉よりも激しかった。』(2サムエル記19:43)
ここに、イスラエル10部族対ユダ族という構図の分裂が起こっている。
その構図は、ダビデの子・ソロモンの時代が終わって以降、顕著に現れるのだが、この時、この混乱に乗じて人々を自分に引き寄せようとする者があらわれる。
『さて、その所にひとりのよこしまな人があって、名をシバといった。ビクリの子で、ベニヤミンびとであった。彼はラッパを吹いて言った、「われわれはダビデのうちに分がない。またエッサイの子のうちに嗣業を持たない。イスラエルよ、おのおのその天幕に帰りなさい」。そこでイスラエルの人々は皆ダビデに従う事をやめて、ビクリの子シバに従った。しかしユダの人々はその王につき従って、ヨルダンからエルサレムへ行った。』(2サムエル記20:1-2)
シバはラッパを吹き鳴らして人々を引き寄せ、わずか二言三言で、全イスラエルをダビデから引き離れさせてしまった。
この時、ユダ族は最後までダビデに付き従ったのであるが、結局、全イスラエルがいとも簡単に突如現れたシバの言葉になびいて、ダビデから離れてしまったという事は、結局彼らにっとってダビデはどうでも良かったという事だ。
つまり、群衆にとっては、自分の思い通りに行くなら、指導者はダビデでも、アブシャロムでも、シバでも良かったのだ。
いつの時代でも、アイデンティティを持っていない群衆は、浮動する大衆心理の赴くままに流され、自分をそこそこ良い生活をさせてくれるなら別に支配者は誰でも良く、いとも簡単に、ある指導者を持ち上げたり、あるいはすぐに敵対したりするものだ。
イエス様のエルサレム入城の時も、群衆はイエス様を高々と持ち上げたのに、その一週間後には、イエス様を十字架につけろと叫ぶ側に一斉にまわってしまった。
心定まらない群衆が集まって、よく分からない主張で盛り上がったりすると、そのような危うさがつきまとうものである。
こうして、肝心のダビデが一言も発しないままに、ただ群衆のざわめきの波に揉まれるまま、イスラエルは、再び分裂状態へと流されて行ってしまった。
せっかくダビデが建て上げつつあった、尊い和解のわざを、シバはいとも簡単にひっくり返してしまった。
シバのように、人々に混乱させ分裂させている彼らは、結局、自分が目立って、人々を自分のもとに引き寄せたいだけで、ダビデの事も、イスラエルの平和も、全く考えていないのだ。
人々に分裂の兆しを見ると「自分が成り上がるチャンスだ」とわくわくして、いらぬ扇情を煽り立て、そうして人々が分裂している様を見て「自分の思い通りになった」と、ほくそ笑んでいるのだ。
『罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。』(ルカ17:1-2)
主に属する人は、和解のつとめを為し、いのちを建て上げるが、サタンの意図は、つまづきを起こさせ、分裂させ、尊いものを踏みにじる。
私達はその意中に、はまってはならない。
パウロは言っている。
『兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。・・・平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。』(ローマ16:17-20)
神は平和の神であり、分裂の神ではない。
平和の神は、私達聖徒の足をもって、そのような兄弟姉妹に分裂を促すようなサタンの性質を、踏み砕かせて下さるのだ。
ただし、私達が踏みにじるのは、誰か人間ではなく、サタンである事も、間違えてはならない。