メッセージ - 飢饉をもたらしたサウルと、恵みの雨をもたらしたリツパ(2サムエル記21:7-14)
飢饉をもたらしたサウルと、恵みの雨をもたらしたリツパ(2サムエル記21:7-14)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-10-23 19:37
飢饉をもたらしたサウルと、恵みの雨をもたらしたリツパ(2サムエル記21:7-14)
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サウル王は民族意識が昂じて平穏に信仰生活していたギブオン人を虐げた結果、ダビデの治世に飢饉がもたらされ、しかも、その罪がなだめられるためには、サウル自身の子孫七人が、主の前で木にかけられ、晒し者にされなくてはならなくなってしまった。
主の約束を軽んじ、ふにゃふにゃの民族意識を昂じさせ、手前勝手な熱心を振り回して善良に暮らしている民族を弾圧する者は、その累が自身の子孫へと及んでしまうのだ。
『しかし王はサウルの子ヨナタンの子であるメピボセテを惜しんだ。彼らの間、すなわちダビデとサウルの子ヨナタンとの間に、主をさして立てた誓いがあったからである。』(2サムエル記21:7)
ダビデはヨナタンに、彼の子孫には恵みを施す誓いを、主の前でしていたため、ヨナタンの子・メフィボシェテを守るために、別のサウルの子孫達を選別した。
『王はアヤの娘リヅパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメピボセテ、およびサウルの娘メラブがメホラびとバルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、彼らをギベオンびとの手に引き渡したので、ギベオンびとは彼らを山で主の前に木にかけた。彼ら七人は共に倒れた。彼らは刈入れの初めの日、すなわち大麦刈りの初めに殺された。』(2サムエル記21:8-9)
アヤの娘・リツパは、元々サウル王のそばめで、サウル王に二人の子・アルモニとメフィボシェテを産んでいた。
サウル王の死後、サウル王家の実権を握った将軍アブネルは、彼女をめとる事によって、自分に実権があるという事を全イスラエルにアピールしたが、アブネルも程なくヨアブによって殺されてしまった。(2サムエル3章)
そんなリツパにとって、この二人の子は、生きがいであっただろう。
しかし彼女の子達は、大麦の刈り入れの始め頃(過越祭の時期)、山の上で木に掛けられ殺されてしまった。
『アヤの娘リヅパは荒布をとって、それを自分のために岩の上に敷き、刈入れの初めから、その人々の死体の上に天から雨が降るまで、昼は空の鳥が死体の上にこないようにし、夜は野の獣を近寄らせなかった。』(21:10)
彼女は、息子たちが木にかけられた日以来、神が天からの雨を降らせる時まで、そこを離れず、猛禽や獣から息子たちの遺体を守り続けたのだ。
ここまで徹底した愛、子が死体となって晒されても、なお守ろうとする「母の愛」。
これ以上の愛は、人には無い。
子がぐれて悪くなり、皆からは「死人」のように見なされても、それでもその子をいつも想い、守り、執り成す。
母とは、そういうものである。
しかし、それよりももっとすごい愛が、この世に存在する。
それは、神の愛である。
『女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。 』(イザヤ49:15-16)
世の中には、自分が産んだ子をあわれまないような母親は、滅多にない。
しかし、たとえ母が子を忘れるような事があっても、それでもなお私達をいつも気にかけ、「言いようもない深いうめき」によって執り成して下さる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。
たとい私達が、罪にまみれ、汚れに陥り、死人のようになったとしても、それでもなお深く憐れみ、弁護し、主の御前に正しく立てるまで、執り成しておられる。
『アヤの娘でサウルのめかけであったリヅパのしたことがダビデに聞えたので、ダビデは行ってサウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシギレアデの人々の所から取ってきた。これはペリシテびとがサウルをギルボアで殺した日に、木にかけたベテシャンの広場から、彼らが盗んでいたものである。ダビデはそこからサウルの骨と、その子ヨナタンの骨を携えて上った。また人々はそのかけられた者どもの骨を集めた。』(2サムエル記21:11-13)
リツパのその行動は、ダビデ王の心を動かした。
『こうして彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のゼラにあるその父キシの墓に葬り、すべて王の命じたようにした。この後、神はその地のために、祈を聞かれた。』(2サムエル記21:14)
長年の間、忘れ去られていたサウルとヨナタンの骨も、また、この度主の前で犠牲となったサウルの子孫達の骨も全て、彼らの故郷・父キシュの墓へと葬るように、ダビデはさせた。
リツパが若い時にサウル王のために産んだ子供たちは、父の罪の故に、犠牲にされてしまった。
しかし、彼女がその遺体を守り続けた事によって、ギブオン人はなだめられ、神はなだめられ、日照りと乾燥の中ずっと遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ぶりの、恵みの雨が降り注いだのだ。
その雨は全イスラエルを潤し、イスラエルの多くの民にパンをもたらした。
私達もまた、父アダムの罪の故に、呪いが定められてしまっていたが、キリストもまた大麦の刈り入れの頃、母マリヤに見守られている中、木にかけられ、呪われた者とされ、神と人との前で晒しものとされた事によって、父なる神はなだめられ、彼を通して、全人類に恵みと慰めの雨が降り注いだのだ。
大きな愛は、人の罪と弱さを覆い、人を回復させ建て上げ、多くの人を潤し、恵みへと導く。
このキリストの愛に浸され、潤され、さらに多くの愛を触発しつつ、福音は今に至って広まりつつあるのである。