メッセージ - ダビデの人生をあらわす象徴的な詩(2サムエル記22:1-9)
ダビデの人生をあらわす象徴的な詩(2サムエル記22:1-9)
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ダビデ記とも言えるこの第二サムエル記の終わり近くに、サムエル記の筆者は、ダビデの代表的な詩を一つ紹介している。
この詩は、詩篇18編とほぼ一致している。
数多くあるダビデの詩の中から、筆者が特にこの詩を選び、サムエル記に挿入したからには、この詩は、ダビデの人生を象徴的に表す詩とも言えるのだろう。
『ダビデは主がもろもろの敵の手とサウルの手から、自分を救い出された日に、この歌の言葉を主に向かって述べ、彼は言った、』(2サムエル記22:1-2)
ダビデがサウルの手から救われたのは、彼が三十歳の時だったが、それ以降の、彼の王としての四十年、ダビデにはサウル以外にも「もろもろの敵」が立ちはだかった。
ペリシテ人などの外敵はもちろん、自国民から沸き起こる政敵、あるいは、親しい友や肉親からの突然の敵対、そして、悪魔からの誘惑など、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求め、主はその都度、助けて下さった。
皆さんは、主はどのようなお方ですか、と尋ねられて、すぐに答えられる言葉があるだろうか。
ダビデは、主がどのようなお方であるかを、次のような言葉で表現している。
『主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが岩。わたしは彼に寄り頼む。わが盾、わが救の角、/わが高きやぐら、わが避け所、/わが救主。あなたはわたしを暴虐から救われる。わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:2)
主がどのようなご性質であられるか、詩の冒頭から幾つも記されている。
ダビデは様々な敵が立ちはだかる都度、主を土台石とし、城とし、あるいは盾とし、そのように、主により頼む事と主から助けをいただく事とを繰り返して行く内に、この詩篇が練られて行ったのだろう。
ダビデはこれら一つ一つの主の性質に、主は「わが・・・」「わたしの・・・」と宣言し、主のそれらのご性質は、皆「わたしのもの」という告白を添えている。
私達も、それにならうべきである。
主は、アブラハム・イサク・ヤコブの主であるばかりでなく、ダビデの主であり、そして今現在、これを読んでいる「あなた」自身の主でもあるのだ。
主は人類歴史において、主を「私の主。私の神。」と呼ぶ、全ての人にとって「主」となって下さるのだ。(ヨハネ20:28)
『わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:4)
ダビデは主を「ほめ讃えられるべき方」としている。
彼は、主を賛美したい心が募るあまり、聖歌隊を編成し、幾つもの詩篇を作って、主に賛美をいくつも捧げさせている。
ダビデが中で多くの苦しみと死の危険を通って来た事は、サムエル記から既に見てきた。
その都度、彼は主に呼び求め、主から助けをいただき、ここまで来れたのだ。
『死の波はわたしをとりまき、/滅びの大水はわたしを襲った。陰府の綱はわたしをとりかこみ、/死のわなはわたしに、たち向かった。苦難のうちにわたしは主を呼び、/またわが神に呼ばわった。主がその宮からわたしの声を聞かれて、/わたしの叫びはその耳にとどいた。』(2サムエル記22:5-7)
ここの箇所は、次のヨナの祈りによく似ている。
『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか。』』(ヨナ2:2-4)
ヨナは大魚に飲み込まれ、海の底の魚の腹の中、という絶望的な状況から、主を呼び求めた。
彼の場合、その苦しみは、彼の不従順によって来た。
しかし、その自らの不従順の苦しみの中からでも、ダビデのように主の宮を思い焦がれた。そして主はそれを聞いてくださり、魚に命じて、彼を陸に吐き出させ、再び彼のミニストリーに戻して下さった。
人がいかに地の奥底に下り、魚の腹にいても、あるいは、自分の不従順ゆえの苦しみの中にあっても、主は、その人呻きのような祈りさえ、漏らさず聞いて下さるのだ。
主は、待っておられる。私たちが主に立ち返り、主を呼び求める事を。
『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれると”すぐ”、あなたに答えてくださる。たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。』(イザヤ30:18-20)
ここを見ると、主はあたかも私達に「主よ助けて下さい」と言う事を今か今かと待っておられ、呼び求めるなら、直ぐにでも恵みを与えよう、と、いつでも準備しておられるかのようだ。
主はいつでも、恵もうと待っておられるのだ。