メッセージ - 主の助けは遥か上を行っていた(2サムエル記22:10-20)
主の助けは遥か上を行っていた(2サムエル記22:10-20)
Youtube動画
メッセージ音声
『彼は「天(複数形)」を低くして下られ、/暗やみが彼の足の下にあった。』(2サムエル記22:10)
主は、主に助けを叫び求める人を救うために「諸々の天」を押し曲げて、降りてこられる。
天には、三つの種類がある。すなわち、上を見上げると見える天(宇宙)と、暗闇の勢力の悪霊どもが棲家とする「空中」(エペソ2:2)と、そして、「第三の天」(2コリント12:2)すなわち天国である。
主は、主に助けを求める人の叫びを聞くと、諸天を押し曲げて、降りてこられる。しかも、暗闇を足の下にして。
主は天から降りて来られる時、主の敵である闇を足の下に踏みにじって下さるのである。
ダビデの目の前に迫り来る敵は、ゴリヤテのように強大あった事もあれば、サウル王のような国家の最高権威だった時もある。
また、アブシャロムのように愛するわが子だった時もあるし、地を満たすほどの大軍団だった事もある。
しかし主は、それら全ての遥か上を行っていた。
主は、天地を支配しておられる万軍の主である。
その素晴らしい主が、こんなにもちっぽけで取るに足りない自分に関わって下さるとは、なんと恐れ多く、そしてなんと素晴らしい事だろう。
『彼はケルブに乗って飛び、/風の翼に乗ってあらわれた。彼はその周囲に幕屋として、/やみと濃き雲と水の集まりとを置かれた。そのみ前の輝きから/炭火が燃え出た。主は天から雷をとどろかせ、/いと高き者は声を出された。彼はまた矢を放って彼らを散らし、/いなずまを放って彼らを撃ち破られた。』(2サムエル記22:11-15)
敵が矢によって攻撃して来るなら、主は、いなずまの矢を放って敵を撃ち破られる。
主は火も水も操作し、大地を動かし、天を押し曲げ、物理法則をも押し曲げ、助けて下さる。
主の助けは、人間の力の及ぶ範囲や、人間の想像できる範囲の、はるか上を行っている。
『主のとがめと、その鼻のいぶきとによって、/海の底はあらわれ、/世界の基が、あらわになった。』(2サムエル記22:16)
主の息吹は、塵のかたまりにいのちを与えるし(創世記2:7)、死の大水を過ぎ去らせ、全地を覆った洪水の水をも乾かす。(創世記8:1)
主が風を送られると、海は右左に壁となって立ち、神の民にはその間を渡らせ、神の民を追い迫ってきたエジプト軍には、水の壁をその前に砕かせ、彼らを水中へと沈めさせた。(出エジプト記14章)
いかに人が力や権威、技術を駆使しても、到底太刀打ちできないような形で、主は助けて下さるのだ。
『彼は高き所から手を伸べてわたしを捕え、/大水の中からわたしを引き上げ、わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを救われた。彼らはわたしにとって、あまりにも強かったからだ。彼らはわたしの災の日にわたしに、たち向かった。しかし主はわたしの支柱となられた。』(2サムエル記22:17-19)
私達もいつも主と共に歩み、そして助けを求めるなら、迫り来る敵はどんなものでも、全て、主の御前に無力となる。
鼻で息を吸う人間も、自然環境や社会的環境、物理的な相手でも、霊的な相手でも、そしてまた、私達自身の内に打ち込まれている罪、欲深さ、強情さ、自我なども。
それらは、私にとっては、到底押し倒す事のできない強敵であっても、主を拠り所とし主に助けを求めるなら、主が圧倒的に勝利をされ、その勝利の行列に私達をも連ならせて下さるのだ。
『彼はまたわたしを広い所へ引きだされ、/わたしを喜ばれて、救ってくださった。』(2サムエル記22:20)
主はなぜ、ダビデを喜びとされ、彼を「ひいき」にされたのだろうか。
主はどのような人を喜ばれ、ダビデのように守られるのか。
『主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。主はおのれを恐れる者と/そのいつくしみを望む者とをよみせられる。』(詩篇147:10)
すなわち主は、主を恐れる人(主を敬い重んじる人)、主のいつくしみを望み求める人を、喜ばれ、彼らを助け、ひいきにして下さる。
ダビデはまた、主は自分を広い所へ導き出して下さった、と告白している。
私達も、御言葉を守り行うなら、今まで私達の通った事の無い、「広々とした良き地」を、主は踏みゆかせて下さる。
その「広々とした良き地」とは、実際の土地かもしれないし、社会的なポジションかもしれないし、あるいは、心の領域かもしれない。
いずれにせよ、御言葉を守り行う度に、内側が清められ、力強くされ、開放されて行くため、心の内が、ますます広々となって自由になるのだ。
そして、今まで恐れや未熟さの故に「あれは出来ない」「これも出来ない」と、閉塞していた心が開放され、出来なかった事が出来るようになり、考えもしなかったよう領域へと、踏み込んで行く事が出来るのだ。
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(1コリント2:9)