メッセージ - ダビデの最後の言葉(2サムエル記23:1-7)

ダビデの最後の言葉(2サムエル記23:1-7)

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執筆 : 
pastor 2015-11-16 23:30

ダビデの最後の言葉(2サムエル記23:1-7)
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『これはダビデの最後の言葉である。』(2サムエル記23:1)
22章はダビデの人生を象徴的に表す詩だったが、今回はダビデが後世へと残した遺言である。
信仰の偉人・ヤコブやモーセ、ヨシュアが残した最後の言葉に比べれば、非常に短くシンプルである。

『エッサイの子ダビデの託宣、/すなわち高く挙げられた人、/ヤコブの神に油を注がれた人、/イスラエルの良き歌びとの託宣。』(2サムエル記23:1)
ダビデはまず、自分を「エッサイの子」「高く挙げられた人」「ヤコブの神に油を注がれた人」「イスラエルの良き歌びと」と、あたかも、誰か第三者がダビデを説明しているかのような「3人称」の表現をしている。

確かに彼は、主によって高く挙げられた人で、神に油注がれ、良き歌びとではあるのだが、ダビデは何も、自分の人生自慢を最後にしたかったのではない。
彼は人生を終えるにあたり、後世の人々に、とても大事な言葉を遺したいがために、そのような強調をして、これから自分が語る言葉は、主に油注がれ、高くされた人生を歩んで来た者の、実績のある言葉であるから、心して聞くように、と、注意を促したのだ。

ダビデはまず、自分は「エッサイの子」と言っている。
自分はかつて、ベツレヘムの無名な羊飼いの末っ子で、父の家では最初は数にも数えてもらえなかった。
そんな自分を、主は高く「挙げられ」、ヤコブの神は自分に油を「注がれた」、と、彼は受身形で全て主に「してもらった」事を強調している。

自分がここまでになったのは、自分の能力や知恵でなったのでは、決してなかった。
自分は元々、無名の弱い低い者だったのに、ただ、神によって一方的に高く上げられた、王権さえも、神からのもらいものである、と表明している。

この「自分は小さき者」「主こそ偉大なお方」という人生評価こそ、真に主とともに歩んだ信仰者の、人生評価である。
パウロもヤコブも、そうだった。
自分は罪人のかしらで、小さき者、ただ、主の憐れみによって、神の国建設の働きの一端を担わせて頂いている、自分は先人達にはとうてい足元にも及ばない、と評価した。
だから、自分は偉大だなどと評価する人は、実は、知らなくてはならない事も知っていないのだ。

『主の霊はわたしによって語る、/その言葉はわたしの舌の上にある。』(2サムエル記23:2)
ダビデは、主の霊によって動かされる人だった。
彼は、聖霊の感動によって詩篇を編纂し、そして聖霊が教えて下さるままにキリストを預言した。(マタイ22:43、マルコ12:36、使徒2:25-31)
それで、彼がこれから語る言葉も、自分のものではなく主の霊によって語るものだ、と注意を促している。
以上はいわば前振りになるが、わずか7節で終わってしまうダビデ最後の言葉のうち、3節を割いてまで、前置きをしたのは、次の、重要な事を伝えるためだ。

『人を正しく治める者、/神を恐れて、治める者は、朝の光のように、/雲のない朝に、輝きでる太陽のように、/地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む。』(2サムエル記23:4)
ダビデが伝えたい重要な事は、すなわち、「治める者」は御前でどのようにあるべきか、という事である。
つまりダビデは、自分の後に生まれてくる「王たる者」「治める者」は、人を正しく治め、神を恐れなさい、と強調したかったのであり、そのように治める人は、民草にとっては朝の光のように、雨の後の太陽のように人を潤し、人を養い育て、栄えさせるのだ。

『まことに、わが家はそのように、/神と共にあるではないか。それは、神が、よろず備わって確かな/とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。どうして彼はわたしの救と願いを、/皆なしとげられぬことがあろうか。』(2サムエル記23:5)
そしてダビデは、神は自分の家門と永遠の契約を結び、とこしえに続く家を建てて下さると、定めて下さったではないか、と言っている。
だから恐れる事は一切ない、この神に依り頼んで生きるべだと、後代に伝えている。

このように、ダビデが後世の王となるべき人に残した内容は、とてもわずかで、シンプルだった。
にもかかわらず、ソロモン以降のダビデ王家は、ダビデの残した言葉どおりに生きなかった。
彼らは、栄えると高ぶって主を軽んじるようになり、主の忌み嫌う偶像礼拝をするようになって、そうして主の御守りが彼らから離れて行ってしまった。

ダビデは「よこしまな者」がどのようになるかについても、はっきりと言い残している。
『しかし、よこしまな人(ベリヤアル:無価値な者、邪悪な者)は、いばらのようで、/手をもって取ることができないゆえ、/みな共に捨てられるであろう。これに触れようとする人は/鉄や、やりの柄をもって武装する、/彼らはことごとく火で焼かれるであろう」。』(2サムエル記23:6-7)
ダビデの敵となった異国の異教徒達は、確かにいばらのように投げ捨てられ倒れていったが、「よこしまな人」とは何も、異邦人に限ったことではない。
いかに神の民イスラエルであっても、主を軽んじ、主の御言葉を捨てるなら、価値なき邪悪な者になってしまい、いばらのようにやりの柄で掻き集められ、焼かれてしまうのだ。

パウロも言っている。
『兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。』(1コリント4:6-7)

ダビデは、全て主にしていただいた事を表明した。同じように、パウロも表明している。
私達も、今こうしてあるのは、全て、主のおかげであるという感謝の心を忘れてはならない。
それを忘れて、傲慢になってしまうと、ダビデの子孫たちと言えども、滅ぼされてしまったように、私達も主を軽んじる事を止めないなら、いばらのように投げ捨てられてしまう。

ダビデのように、人生の終わりに至るまでいつも主に感謝し、主を褒め称え、それを後代へと伝えて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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