メッセージ - ダビデに仕えた勇士たち - 三十人の長の三勇士(2サムエル記23:8-17)

ダビデに仕えた勇士たち - 三十人の長の三勇士(2サムエル記23:8-17)

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pastor 2015-11-18 23:50

ダビデに仕えた勇士たち - 三十人の長の三勇士(2サムエル記23:8-17)
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ダビデは、自分は偉大な王にはなったけれども、そのすべてはただ主から与えられた、主が自分を立ててイスラエルを治める者としてくださった事を、最後の言葉で告白した。
この23章8節以降は、ダビデに仕えた勇士たちの名前が記されている。

『ダビデの勇士たちの名は次のとおりである。』(2サムエル記23:8)
ダビデ記とも言えるこの第二サムエル記の最後に、彼に仕えた勇士たちの名が記されている事には、意義がある。
イスラエルの栄光建て上げは、何も、ダビデ一人のわざではなく、その背後に王に仕え、神に仕えた勇士たちがいる事を、しっかり記録している。

『タクモンびとヨセブ・バッセベテはかの三人のうちの長であったが、彼はいちじに八百人に向かって、やりをふるい、それを殺した。彼の次はアホアびとドドの子エレアザルであって、三勇士のひとりである。
彼は、戦おうとしてそこに集まったペリシテびとに向かって戦いをいどみ、イスラエルの人々が退いた時、ダビデと共にいたが、立ってペリシテびとを撃ち、ついに手が疲れ、手がつるぎに着いて離れないほどになった。その日、主は大いなる勝利を与えられた。民は彼のあとに帰ってきて、ただ殺された者をはぎ取るばかりであった。』(2サムエル記23:8-10)

ダビデの三勇士の長は、たった一人で、八百人の敵を打ち倒した。
まさに、信仰による一人の人は千を打ち、ふたりは万を打つのだ。(申命記32:30)
第二の人・エレアザルもまた、みんなが後退した時でも一人で戦い、剣が手と一体化するまでに孤軍奮闘したが、「その日、主(エホバ)は大いなる勝利を与えられた。」。
信仰の人が、一人でも残って戦うなら、主がその人の信仰を汲み取って働いて下さり、全体を勝利へと導くのである。(1サムエル記14章)
私たちも、この日本という国の中において、祈りで戦う信仰の戦士達たち(エペソ6章)がいないような状況であっても、御言葉の剣を手放さず、御言葉の剣が、自分自身と一体化するまでに戦い続けるなら、主は、そのような人を通して、ご自身を表され勝利して下さり、そして勝利して得た多くの分捕りを、他の兄弟姉妹たちにも分け与える事が出来るのだ。

『彼の次はハラルびとアゲの子シャンマであった。ある時、ペリシテびとはレヒに集まった。そこに一面にレンズ豆を作った地所があった。民はペリシテびとの前から逃げたが、彼はその地所の中に立って、これを防ぎ、ペリシテびとを殺した。そして主は大いなる救を与えられた。』(2サムエル記23:11-12)
この三人に共通している事は、たとえ一人になったとしても決して後退せずに戦い、そして、主が彼らに勝利をもたらして下さった事だ。
彼らは単に力強さや戦いのスキルがあったばかりでない。彼らには、ダビデに対する忠誠と愛が大きかった事が、次の記事で分かる。

『三十人の長たちのうちの三人は下って行って刈入れのころに、アドラムのほら穴にいるダビデのもとにきた。』(2サムエル記23:13)
ダビデがアドラムのほら穴にいた時は、ちょうど、ダビデがサウルに追われて逃避行が始まった頃で、彼が一人で逃げていた所を、虐げられている人や負債がある人々、苦い魂を持った人達が、彼を慕い求めて集まりだした時だった。
そんなダビデがアドラムのほら穴にいた時に、この三人はダビデと行動を共にするようになったのだろう。

『時にペリシテびとの一隊はレパイムの谷に陣を取っていた。その時ダビデは要害におり、ペリシテびとの先陣はベツレヘムにあったが、ダビデは、せつに望んで、「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」と言った。そこでその三人の勇士たちはペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水を汲み取って、ダビデのもとに携えてきた。』(2サムエル記23:13-16)
たった3人で敵の陣営を突き抜け、敵陣まっただ中の井戸から水を汲み、その水をこぼさないようにして、持ち帰る。
彼らが飛び抜けて力強くあったばかりでなく、忠誠心においても飛び抜けていた事が分かる。

彼らは、ダビデはとても喜んでその水を飲んでくれるだろう、と思っていたであろう。
しかしダビデは、その水が彼の前に差し出された時、意外な事をする。
『ダビデはそれを飲もうとはせず、主の前にそれを注いで、言った、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」。こうして彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士はこれらのことを行った。』(2サムエル記23:16)

ダビデに飲んでもらおうと、命がけで取って来たその水を、ダビデは飲む事をせず、主の前に「注ぎの供え物」としてささげた行動は、人によっては不可解な行動に見えるかもしれない。
ただ前回の箇所から分かる事は、自分は本当に何者でもなく、主の憐れみが無ければ、全く取るに足らない者だと認識していた事だ。
ダビデは、自分はとうてい、水一杯を飲むために、素晴らしい貴重な勇士たちが、命がけで水を汲んで来てもらえるような資格など、主の御前において断じて無い、と、認識していたのだ。
だから彼は、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」と言って、主に捧げたのだ。

きっとこの三人の勇士達は、本当はダビデに飲んで欲しかったであろう。
ただ、もし、ダビデがこの時飲んでいたら、その水はダビデの腹に降って、いくばくかの渇きが癒され、その時の感謝と満足でおしまいだったであろう。
しかしダビデは、そんな事を望まなかった。
つまり彼はこの三人をないがしろにして飲まなかったのではなく、その真逆で、大切に思ったからこそ飲む事ができず、ダビデの最も大切なお方である主に捧げたのだ。
これは主にささげられた事によって、この三人が成した忠誠と勇気のすべてが、永遠の記念として昇華されたのだ。

世の中には、色々な王様や指導者がいる。
おいしい水一杯を飲むために、いのちがけで汲みに行けと平気で命令するような者も中にはいるが、ダビデは彼らとは一切違い、自分の私腹を肥やすためでなく、ただ主のために生き、主のためにささげる人生を全うした。
そんなダビデのありさまを、部下たちは見て、自分達は本当に優れた王のために、そして神のため、永遠のために戦っているのだ、と誇りを持つことが出来、安心して戦い働く事が出来ただろう。

第二サムエル記の終わりに、このような記事がある事は、非常に意義である。
神の国の事柄は、ダビデなど誰か特別なヒーローの肩だけに乗っかっているものではなく、背後の多くの働き人たちの献身によって成り立っている事を、この記事は思い起こさせてくれる。
私達一人一人も、神の国の一旦を担う信仰の勇士である事を、決して忘れてはならない。

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