メッセージ - 御言葉はそのままに(黙示録22:18,19)
礼拝説教メッセージ音声:
第一礼拝(日本語): 御言葉はそのままに(黙示録22:18,19):右クリックで保存
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9x9は、81である。
九九は算数の基本中の基本で、小学2年で学び、その時は訳も分からず覚え込ませられるが、大学に行っても、社会に出ても、計算の際には必ず必要になってくる。
当然のごとく、誰も9x9を20とは主張しないし、81以外の例外を証明できた者はいない。
算数や数学の答えは単純明快、世界共通であり、私情を挟む余地が無いものである。
主イエスは、算数という「ことば」を創られたお方であり、主の御言葉の一点一画が落ちるよりは、算数や物理法則を含めた全宇宙の理(ことわり)が滅びる方が、はるかにたやすい。(ルカ16:17)
にもかかわらず、人は御言葉において、「私の9x9は11だ」とか「今日の気分は9x9=1だ」とか、「みんな一人一人、個性的な解釈があって良いんじゃないか」といったような事を、なぜか仕出かす。
9円の商品が9個欲しいなら、きっちり81円出さなくては、お店の人は商品を出さないし、「私の9x9は11だ」と主張しても、商品はもらえない。
それと同様、人の救いの贖い代は値高く、きっちり支払えるのは御子イエスのみである。(詩篇49)
聖書は算数よりも確かな法則で、「こうすればこうなる」の宝庫であり、蓄えれば蓄えるほど生きる上で必要な知恵に満たされ、信じれば信じるほど豊かになる。
収穫物の初物を捧げれば、主はきっちりと、倉に穀物を満たし搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる(箴言3:9,10)し、イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われる(使徒16:31)と書いてある。
倉が満たされないのは、主に捧げていないからであり、あなたもあなたの家族も救われないのは、肝心の「イエスを信じる」事をおろそかにしているからではなかろうか。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:4)
御言葉は人を照らす光であり、人がどのような状態であるかを明るみに出す。
人は体重計に乗って、指し示す数字を見て「ひどい」と言う事は出来ない。
その目盛りが重すぎるのならダイエットすべきであり、それが軽すぎるなら、きちんと栄養を取るべきである。
「体重計は私の心を傷つけてばかりいるから、体重計の方が間違っている。」とか、「体重計が今100を示しているけれど、実はこれこれの意味があって、その場合は50と解釈すれば良いのだ」などと余計な解釈を付け足したりしていたら、いつまでも不健康のままである。
人は、そのような解釈による付け足しを、御言葉において、なぜか仕出かす。
御言葉が人を量る時、人の罪の本性を指し示す。それを希釈してはならないし、付け足してもならない。
罪から救い出せるお方はイエスキリストお一人であり、例え罪が緋のように赤くとも雪のように白くされる。
「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18,19)
エバはサタンにそそのかされた時、善悪の実に「触れてもいけない」と、御言葉に勝手な解釈を付け加えたが、それはパリサイ派の種であり、偽りへ踏み出す第一歩である。
御言葉に対しての正しい対処は、御言葉は足し引きせず、そのままいただく事である。
御言葉は一人一人に対する愛の込められた手紙であり、信仰をもってそのままいただくなら、キリストの香りが春の花の香りのように心と霊、体に充満し、愛と嬉しさによって満たされるのである。
もっとも強力な祈りは、御言葉をそのまま祈る祈りであり、難しい事は考えずいつでもどこでもシンプルに
「イエスよ助けて下さい」と祈るなら、イエス(イエシュア=「神は救い」)は救いを与えて下さる。
御言葉ご自身であるキリストを豊かに住まわせる皆さんでありますように。イエスの名によって祝福します!