メッセージ - サタン由来の”感動”に動かされてしまったダビデ(2サムエル記24:1-9)
サタン由来の”感動”に動かされてしまったダビデ(2サムエル記24:1-9)
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- 執筆 :
- pastor 2015-11-20 23:50
サタン由来の”感動”に動かされてしまったダビデ(2サムエル記24:1-9)
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いよいよ2サムエル記も最終章となった。
前章では、ダビデの最後の言葉が記され、ダビデを支えた勇士たちも記され、そこで一旦完結しても良かったような気もするが、なおもうひとつ、時期的にもう少し遡った時に起きた出来事、すなわち、ダビデが主の御前に犯した一つの罪の出来事が記されている。
ダビデ記とも言える第二サムエル記の最終章が、ダビデの罪の記事で終わるのは、いささか不思議な気もするが、実はそれは全イスラエルにとって、いや、全人類にとって重要な事のきっかけとなる。
その重要な事とは、すなわち、エルサレム神殿建立である。
ダビデが犯した罪が、そのきっかけとなるのだ。
『主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。』(2サムエル記24:1)
一見すると、あたかも主が、ダビデを動かして、イスラエルの数を数えさせよと誘惑したかのように取れる。
主は誰をも誘惑するようなお方ではないとヤコブ1:13に記されているが、一体どういう事か。
KJVでは、ここは「”he” moved David against them to say, Go, number Israel and Judah. 」と記されている。
この、ダビデを「感動」させ、イスラエルとユダを数えさせるようにした「he」とは、何者か。
歴代誌の並行箇所を見ると、その「he」が誰だか分かる。
『時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。』(1歴代誌21:1)
そう、「he」とはサタンであり、彼がダビデを動かしたのだ。
『試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。』(ヤコブ1:12-15)
ここに書いてある通り、神は「試練」は与えられても、「誘惑」はなさらない。
「誘惑」と、「試練」とは、全く別物である。
「誘惑」が最終的に目指す所は、人を死へと、滅びへと至らせる事であり、「試練」が最終的に目指す所は、人を生かし、建て上げる事である。
サタンは、人の「欲」をおびき寄せのターゲットに用い、おびきよせた人を罪へ捕らえ、その罪が熟し切ると、死に至る。
誘惑は悪魔に由来し、人の欲がそれに乗っかると、その人が死に至るまで便乗して行くのだ。
「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれる」とある通りである。
ダビデは、サタン由来の「民を数えよ」という思いを吹き入れられ、それに「感動」し、動かされてしまった。
『そこで王はヨアブおよびヨアブと共にいる軍の長たちに言った、「イスラエルのすべての部族のうちを、ダンからベエルシバまで行き巡って民を数え、わたしに民の数を知らせなさい」。ヨアブは王に言った、「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。そして王、わが主がまのあたり、それを見られますように。しかし王、わが主は何ゆえにこの事を喜ばれるのですか」。しかし王の言葉がヨアブと軍の長たちとに勝ったので、ヨアブと軍の長たちとは王の前を退き、イスラエルの民を数えるために出て行った。・・・
こうして彼らは国をあまねく行き巡って、九か月と二十日を経てエルサレムにきた。そしてヨアブは民の総数を王に告げた。すなわちイスラエルには、つるぎを抜く勇士たちが八十万あった。ただしユダの人々は五十万であった。』(2サムエル記24:2-9)
ヨアブが「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。」とダビデを諌めたのは、全く正解であったが、ダビデに吹きこまれてしまった悪魔由来の”感動”の勢いは、ヨアブと軍団長たちの諌めの言葉よりも強かった。
そうしてヨアブは行って、戦士たちの数え、およそ9ヶ月後に、その調査結果が出た。
その結果は、イスラエルが八十万、ユダが五十万、合計百三十万人だったが、その有限なる数字の結果を聞いたダビデは、無限なる主の御前に良心のとがめを感じ、自分は罪を犯したと告白した。(10節)
さて、ここで疑問に思う。
兵士の数を数える事が、なぜそんなに悪い事なのだろう。
国家が人口調査をするのは当たり前だし、企業もビジネスドメインの統計を出さなくては、その後の戦略は立てられない。
一体なぜ、この時、ダビデが全イスラエルの戦士を数える事が、そんなに悪い事だったのだろう。
よく読みとるべきである。一体何が、ダビデを動かして兵士の数を数えさせたのか。
それは主ではなく、ダビデ自身ですらない。
それは、サタンである。
サタン由来の感動によって物事を行うなら、一見良い事に見えるような事も、罪となりうる。
兵力調査も、献金する事さえも。
アナニヤとサッピラは、夫婦ともに合意の上で、売った地所の代金の一部を取っておき、「これで全部です」と偽って”献金”したが、ペテロに「どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。」と指摘された。(使徒5:3)
ダビデは元々、兵の数に頼るような人ではなかった。
自分と他人の力や数を比較して、戦うべきかそうでないかを判断するような人物ではなかった。
もしそうなら、ダビデは元々、ゴリヤテに向かって行かなかっただろう。
彼は王となって、力が増し加わるにつれ、兵たちを見て「これは自分の号令によっていくらでも動くものだ」「いったいどのくらいのものなのか」という、驕り高ぶった思いが、サタンに付け込まれたのだろう。
人は、証拠を求めたがる。自分はどのくらいの兵力で相手はどのくらいか、この事をするのにいくらかかるのか、手持ちの資産は幾らか、今立てている計画はどうで、それが成功する根拠は一体何か、など。
世は、社会は、そうして物事を進めて行くが、神の国の事柄は、物的証拠によって動くのではなく、信仰によって動くものである。
主は、兵の多さによって人を救うお方ではない。
心が全く主に向いている人を喜ばれ、その人に主は勝利を与えて下さるのである。
有限なる「見える事柄」を数えだし、そして自分の持ち物と、敵の持ち物とを比較しだすと、無限なる神が見えなくなり、無尽蔵の保証の源である信仰によって歩む事ができなくなってしまう。
勝利をもたらすのは、装備や兵力、財産ではなく、主である。
主に従うなら、こちらが一人であっても千んを打ち、二人が万を打つのだ。
私達は何事も、主から来たのか、サタンから来たのかを、御言葉のものさしと聖霊の感覚によって見極め、本当に良いものを選んで歩んでいきたい。