メッセージ - 人の罪の結果さえ用いて最善へと造り変えて下さる主(2サムエル記24:10-17)
人の罪の結果さえ用いて最善へと造り変えて下さる主(2サムエル記24:10-17)
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- 執筆 :
- pastor 2015-11-23 23:50
人の罪の結果さえ用いて最善へと造り変えて下さる主(2サムエル記24:10-17)
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『しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。そこでダビデは主に言った、「わたしはこれをおこなって大きな罪を犯しました。しかし主よ、今どうぞしもべの罪を取り去ってください。わたしはひじょうに愚かなことをいたしました」。』(2サムエル記24:10)
ダビデは部下の静止をふりほどいて民の数を数えたが、調査結果が出て、有限であるその数字を聞いた時、心を責められた(原意:ダビデの心が彼(ダビデ)を打った)。
全能であり無限である主を差し置いて、有限の、目に見える自分の資力に頼りを置き、周囲と自分とを比較している人は、いつも、自分の有限な力にも頼って生きなくてはならない焦燥感に追われ続けて生きていかなくてはならない。
この生き方は、無限であられる主から、無限の安全と無限の保証を得て生きる「信仰生活」に比べれば、とてつもなく不安定な生き方である。
ダビデは、自国の民を数えてその数を知った時、その保証の源と平安とを失ってしまったのだろう。
しかし、彼が良心の咎めを受けた時、彼はすぐに主の御前に出て、自分の罪を告白した。
ダビデは、さすがである。
『ダビデが朝起きたとき、主の言葉はダビデの先見者である預言者ガデに臨んで言った、「行ってダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる、「わたしは三つのことを示す。あなたはその一つを選ぶがよい。わたしはそれをあなたに行うであろう」と』」。ガデはダビデのもとにきて、彼に言った、「あなたの国に三年のききんをこさせようか。あなたが敵に追われて三か月敵の前に逃げるようにしようか。それとも、あなたの国に三日の疫病をおくろうか。あなたは考えて、わたしがどの答を、わたしをつかわされた方になすべきかを決めなさい」。』(2サムエル記24:11-13)
主は今回、ダビデが犯した罪の報いとして、3つの選択を与えた。
4番目の選択は無いし、何事のペナルティもなく放免されるという事も無い。
その選択肢は、いずれも、ダビデには辛いものだった。
私達もあるかもしれない。
過去に犯してしまった罪故に、非常に少ない選択肢の中から、どれかを償いとして選択しなくてはならない事が。
しかし、その「償い」を御前で成し遂げた後に、主は、さらなる最善の道を歩ませ、幸いを返して下さる。
『ダビデはガデに言った、「わたしはひじょうに悩んでいますが、主のあわれみは大きいゆえ、われわれを主の手に陥らせてください。わたしを人の手には陥らせないでください」。』(2サムエル記24:14)
ダビデは、「ききん」とか「敵」とか「疫病」とか、具体的には答えず、主の手に陥らせて下さいと言って主に委ね、それで主は「疫病」を下される。
1歴代誌21:12の並行箇所を見ると、「主(エホバ)のつるぎすなわち疫病」、と記されてあって、疫病にのみ「主(エホバ)」の御名が付されている。
ダビデは、ききんという自然の脅威や、敵という人間の手に陥るよりは、主の御手に陥る事を選んだのだ。
『そこで主は朝から定めの時まで疫病をイスラエルに下された。ダンからベエルシバまでに民の死んだ者は七万人あった。』(2サムエル記24:15)
ダビデが犯した過ちは、イスラエルの多くの人々の死をもたらした。
一体主は、ダビデ一人の犯した罪ゆえに、関係の無い罪なき人々を死なせるという事を、されるのだろうか?
よく読むと、これはダビデ一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題だったようである。
この事件の最初は、次のように始まっている。
『主は再び”イスラエル”に向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。 』(24:1)
『時にサタンが起って”イスラエル”に敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。 』(1歴代誌21:1)
これら、冒頭の言葉を見ると、どうやらダビデというより”イスラエル”に問題があり、ダビデが代表して罪を犯したような感じである。
実際、3つの災いの内容は、3つとも、イスラエル全体に災いをもたらすものである。
では主は、罪なき人を、故なく打たれるのであろうか?その逆である。
いと高き方の隠れ場に住み、全能なる主の陰に宿る人は、たとえ戦や病が起こって、傍らに千人が、右手に万人が倒れるような状況でも、災いは近づかないと記されている。(詩篇91篇)
民数記でも度々起きたが、主に信頼を置いている人は病や災いから守られるが、そうでない人は災いに追いつかれてしまうのだ。
主は信仰者とそうでない者を「ふるい」にかけ、イスラエル全体が霊的怠慢に陥っている所に、揺さぶりをかけたのだろう。
主は、好きこのんで、人々に災いを下されるお方ではない。神罰は誰にも彼にも降されたわけではなく、主と王とに忠実な人は、たとえ災禍の中心地にいても災いは降されなかった。
イスラエルの人々とダビデが苦しんでいるのを見て、主は災いを思いなおされる。
『天の使が手をエルサレムに伸べてこれを滅ぼそうとしたが、主はこの害悪を悔い、民を滅ぼしている天の使に言われた、「もはや、じゅうぶんである。今あなたの手をとどめるがよい」。その時、主の使はエブスびとアラウナの打ち場のかたわらにいた。ダビデは民を撃っている天の使を見た時、主に言った、「わたしは罪を犯しました。わたしは悪を行いました。しかしこれらの羊たちは何をしたのですか。どうぞあなたの手をわたしとわたしの父の家に向けてください」。』(2サムエル記24:16-17)
主は、祈りを聞いて下さるお方であり、大上段からばっさりと一方的に命令を下されるお方では、決してない。
ダビデは主に執り成し、主はそれを聞かれたし、アブラハムも主に執り成し、主はそれを聞かれた。
さて、この度イスラエルに災いを降している御使いが立っていた場所は、エブス人・アラウナの麦打ち場だった。
実は、この場所はとても特別な場所である。
そこは「モリヤ」と呼ばれる山(2歴代誌3:1)であり、すなわち、アブラハムがイサクを捧げた場所だ。
しかもこの場所は、後に、エルサレム神殿が建てられる所である。
モリヤの地、神殿の丘。
そこは、礼拝を捧げる地であり、罪の身代わりの備えがあり、身代わりの犠牲が捧げられ、死ぬべき罪人の罪が赦され、生かされる地である。
主のご計画は、実に計り知れない。
ダビデは確かに間違いを犯し、イスラエルは打たれたが、主は、そんな罪の結果の苦しい刈り取りさえ、「最善」へと方向修正なさるお方である。
私達は、この主のなさる事は、理解できない。私達の想像を遥かに超えて働かれるお方なのだ。
ただ、この無限であられる主に信頼し、無限の安心と保証の内に歩んでいく私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!