メッセージ - ダビデに買い取られたエブス人アラウナの打ち場(2サムエル記24:18-25)
ダビデに買い取られたエブス人アラウナの打ち場(2サムエル記24:18-25)
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- 執筆 :
- pastor 2015-11-25 23:50
ダビデに買い取られたエブス人アラウナの打ち場(2サムエル記24:18-25)
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『その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。』(2サムエル記24:18)
主が、預言者ガデを通して祭壇を立てるように指図された、この「エブス人アラウナの打ち場」は、一体どういう場所なのか。
そこはとても重要な場所である。
ここは後に、エルサレム神殿が建立される場所であり、大昔、全イスラエル民族の先祖・アブラハムが、ひとり子イサクを捧げた、あのモリヤの山である。(2歴代誌3:1、創世記22:2)
『アラウナは見おろして、王とそのしもべたちが自分の方に進んでくるのを見たので、アラウナは出てきて王の前に地にひれ伏して拝した。そしてアラウナは言った、「どうして王わが主は、しもべの所にこられましたか」。ダビデは言った、「あなたから打ち場を買い取り、主に祭壇を築いて民に下る災をとどめるためです」。
アラウナはダビデに言った、「どうぞ王、わが主のよいと思われる物を取ってささげてください。燔祭にする牛もあります。たきぎにする打穀機も牛のくびきもあります。王よ、アラウナはこれをことごとく王にささげます」。アラウナはまた王に、「あなたの神、主があなたを受けいれられますように」と言った。』(2サムエル記24:20-23)
エブス人アラウナは、王に対し、また主に対してとても忠実な人物で、しかも、全ての財産を潔く喜んで捧げる、無私無欲な人であった事がよくわかる。
彼はまた、状況に左右されず、仕事に打ち込む人だったようだ。
彼は、自分の麦打ち場に立っている御使いがイスラエルに剣を向けていて、それで多くの人々が疫病に打たれ死んでいるのに、それを見ておきながらも麦を打つ事に専念していたのだ。(1歴代誌21:20)
イスラエルで多くの人々が打たれ倒れている傍ら、このエブス人と、その家族とには一切、害が及んでいない。
主は、主に忠実で、主が立てた権威に対しても忠実な人であるなら、いかにエブス人という異邦人であっても、災いで打つ事はせず、どんなに災いがはびこっている時代の中でも、守って下さるが、主と主の立てた権威に不従順な人は、いかに神の民イスラエルであっても打たれてしまい、災いの時代には真っ先に滅んでしまうのだ。
『しかし王はアラウナに言った、「いいえ、代価を支払ってそれをあなたから買い取ります。わたしは費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」。こうしてダビデは銀五十シケルで打ち場と牛とを買い取った。ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。』(2サムエル記24:24-25)
ダビデは「費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」と言ったが、その通りである。
犠牲なき礼拝には、意味が無い。
礼拝は、捧げることから始まる。
主が定められた日に、私達人間の側は、お金や時間、エネルギーなどを払い、礼拝すべき場所へとみずから赴き、そこで祈りと賛美、献金や奉仕を捧げるのである。
そのようにして”犠牲”を捧げるなら、主はその応えとして、御言葉による導きを、また日々の必要の備えを、そして、祝福を与えて下さるのである。
このような、神と人との双方向のコミュニケーションこそ礼拝である。
この、礼拝における私達の分は、まず、私達自身の体(ソーマ:霊、魂、肉体)を生きた供え物として捧げる事である。(ローマ12:1)
アラウナが麦打ち場として所持していた所は、モリヤの山と呼ばれていた。(2歴代誌3:1)
すなわちそこは、かつてアブラハムがイサクを捧げた所で、イスラエル民族の父・アブラハムは、そこでひとり子イサクを捧げるという、究極の痛みを伴う礼拝を捧げた場所だった。
アブラハムが主から示された通りに、このモリヤの山へと登り、イサクをほふろうとして剣を振り上げたその瞬間、主はアブラハムを呼ばれ、イサクに手をかけてはならない、と命じれた。
アブラハムの主に対する信仰が、この「行い」によって実証された故に、主はイサクの身代わりとなる一頭の雄羊を得させて下さった。
こうして、捧げられて死ぬべきだったイサクは、主が備えられた身代わりの雄羊の故に、命拾いしたのである。(創世記22章)
異邦人アラウナは、アブラハムがかけがえのないひとり子・イサクを捧げたのと同じ場所で、彼が所有していたこの土地や牛、脱穀機などの全財産を「全部捧げます」と言って、ひと度、所有権の一切を、ダビデへと手放した。
しかし彼は、次の瞬間、ダビデの「いいえ、買い取ります」という言葉によって、彼は相当の代価を得て財産を失う事は無かった。
ちょうど、アブラハムがイサクを捧げる時、主が、イサクの身代わりに捧げられる雄羊を備えて下さったように。
アラウナの信仰による行いもまた、アブラハムと一緒だったのである。
異邦人といえども、心から主に捧げるなら、それは大いに主に用いられるものとなる。
ちょうど無名の少年が、5つのパンと2匹の魚をイエス様に捧げた所、主を求めて来た人達五千人以上を養ったのと、同じように、彼が捧げたその土地は、後に神の民イスラエルにとってもっとも重要な土地となって行く。
信仰をもって捧げる事こそ、私達に求められている「礼拝」であり、それをする聖徒には、主は豊かに備えて下さるのである。
それは、アブラハムも、異邦人アラウナも、私達も同じである。
『ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。 』(2サムエル記24:25)
これが、第二サムエル記の最終節である。
ダビデは、アラウナの打ち場を買い取って、そこで犠牲のいけにえを捧げた。
そうして、全イスラエルの罪に対する罰は、止んだ。
後に来られるまことのダビデ、イエス・キリストも、この神殿の丘の傍らに位置するゴルゴダの丘で、十字架に掛けられ、全人類の身代わりの羊として犠牲となり、それ故、彼を信じる人は、罪赦され、処罰は止み、救いを得るのだ。
そして、このお方に捧げる全ての礼拝者は、異邦人であっても、イスラエル人であっても、「主の山からの備え」を頂く事が出来るのだ。
サムエル記は、ダビデがこの土地を買い取って、犠牲の捧げものを捧げる礼拝で終わった。
それは、後のイスラエルにとって重要な出来事であるばかりでなく、私達キリスト者にとっても、非常に意義深い出来事である。
私達もアラウナのように、礼拝の場所において、全身全霊をまことのダビデである主イエス様に捧げるなら、全ての必要と祝福を得、そして、捧げられたものは大いに神の国・神の民のために用いられて行くのだ。