メッセージ - 平和の都、平和の王から離れてしまったシメイ(1列王記2:36-46)
平和の都、平和の王から離れてしまったシメイ(1列王記2:36-46)
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- 執筆 :
- pastor 2015-12-14 21:31
平和の都、平和の王から離れてしまったシメイ(1列王記2:36-46)
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ソロモンは続いて、シメイへの対処を行う。
シメイは、ダビデがアブシャロムに追われて本当に困っていた時、ダビデ一行にさかんに呪いの言葉を浴びせ、石を投げつけながら、一行の傍をついて行った。
しかし、ダビデがアブシャロムに勝利し、これからダビデが栄える事が確定した時には、真っ先にダビデの元に駆けつけて、平伏して謝罪し、命を拾った者だ。
彼は、ダビデ王にこの上なく失礼な事をしたのに、それでもダビデ王が彼を赦したのは、もし、真っ先にダビデ一行を迎えに出て謝罪したこの者を殺していたのなら、それまでアブシャロムの側についてダビデに反していた大くのイスラエル人たちは、恐怖し、ダビデにますます心を閉ざし、さらに反乱分子が沸き起こっていた事だろう。
しかし、ダビデ王が示したその大きな憐れみの故に、多くのイスラエルはダビデ王に心を開くようになった。
そういうわけでシメイはあの時、殺されずに済んだのだが、まことに彼のように、権威に対して心に一物をかかえ、口先三寸と世渡り上手さでのし上がっているような者は、王国の中では、危険分子である。
実際彼は、ベニヤミンの中では有力者で、影響力のある人だった。
ダビデ王の治世の時は、彼にはどうする事も出来なかったが、やはり彼は野放しにして置くわけには行かないので、ダビデは特にソロモンに命じたのだろう。
ソロモンも分かっていた。シメイを、ベニヤミン人達の中で野放しにしていたら危ないと。
『また王は人をつかわし、シメイを召して言った、「あなたはエルサレムのうちに、自分のために家を建てて、そこに住み、そこからどこへも出てはならない。あなたが出て、キデロン川を渡る日には必ず殺されることを、しかと知らなければならない。あなたの血はあなたのこうべに帰すであろう」。シメイは王に言った、「お言葉は結構です。王、わが主の仰せられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてシメイは久しくエルサレムに住んだ。』(1列王記2:36-39)
ソロモン王は彼に、あなたには不穏な事を企む疑いがあるから、この都から出てはならない、もし出ないなら命は安全である、しかしもし出るなら、あなたの命は無い、と言って、こうして彼を首都エルサレムで監視下に置いた。
彼は約束したとおり、三年間はおとなしくエルサレムから出ずにいて無事だったが、しかしその後、約束を破る。
『ところが三年の後、シメイのふたりの奴隷が、ガテの王マアカの子アキシのところへ逃げ去った。人々がシメイに告げて、「ごらんなさい、あなたの奴隷はガテにいます」と言ったので、シメイは立って、ろばにくらを置き、ガテのアキシのところへ行って、その奴隷を尋ねた。すなわちシメイは行ってその奴隷をガテから連れてきたが、』(1列王記2:39-40)シメイがエルサレムを出た理由は、奴隷が逃げたので、直々に連れ戻すため、であった。
別段、緊急でも重要な用事でもない。
彼には他にも多くのしもべがいただろうに、それでも彼が直々に連れ戻しに行ったのは、彼は三年もエルサレムから出ずにいたのだから遠出して気晴らしがしたかったのかもしれないし、あるいは、3年も何事も無く無事だったのだから、そろそろ大丈夫だろう、くらいに思ったのかもしれない。
ともかく、ソロモンの命令を軽んじて、約束を破った事には変わりない。
『シメイがエルサレムからガテへ行って帰ったことがソロモン王に聞えたので、王は人をつかわし、シメイを召して言った、「わたしはあなたに主をさして誓わせ、かつおごそかにあなたを戒めて、『あなたが出て、どこかへ行く日には、必ず殺されることを、しかと知らなければならない』と言ったではないか。そしてあなたは、わたしに『お言葉は結構です。従います』と言った。ところで、あなたはなぜ主に対する誓いと、わたしが命じた命令を守らなかったのか」。』(1列王記2:41-43)
シメイは、主にかけて、誓っていたのだ。エルサレムから出ません、と。
彼はダビデ王から憐れみを受けたし、ソロモン王からも、命を保つ道、すなわち、エルサレムから出ない、という約束を主にかけてしていたのに、たかだか二人の奴隷の逃亡を赦さないゆえに、出てしまい、こうして彼は弁解の余地がなくなってしまった。
ところで、エルサレムの名前は「平和(シャローム)の町」あるいは「平和の土台」を意味する。また、ソロモンの名前も、シャロームに由来する。
シメイは本来、殺されてもいいような罪を犯したのに、憐れみを受け、平和の王の都、平和の土台から出てはならない、という救いの道を示されていたのに、二人の奴隷を赦さなかったゆえに出てしまい、もはや、弁解の余地がなくなってしまった。
この事は、現代の私達も大いに気をつけるべき事である。
私達も、主に対して、決して払い切る事の出来ない罪の負債を負っているというのに、主の大きな憐れみによって、赦され、負債は免除された。
そして、平和の王であるキリストから離れず、平和の領域に留まっているなら、裁かれる事は無く、守られているのに、しかし、他人を赦さず、自ら裁き、この平和の領域から敢えて出てしまうなら、もはや憐れみの余地は無いのだ。(マタイ18:23-35)
『王はまたシメイに言った、「あなたは自分の心に、あなたがわたしの父ダビデにしたもろもろの悪を知っている。主はあなたの悪をあなたのこうべに報いられるであろう。しかしソロモン王は祝福をうけ、ダビデの位は永久に主の前に堅く立つであろう」。王がエホヤダの子ベナヤに命じたので、彼は出ていってシメイを撃ち殺した。』(1列王記2:44-46)
彼は、憐れみと赦しに富んだ王・ダビデのやさしさにつけ込んで、悪いことを赦してもらった。
そしてソロモンの時にも、エルサレムの中に留まっていれば安全だった、それでも彼は自分から出てしまった事によって、それをふいにしてしまった。
こうしていよいよ彼は、死刑という罰を受けてしまった。
私達も、何度でも許されると思って主を軽んじ、自分の思い通りに物事を押し通そうとするようなシムイの心を、取り除くべきである。
『こうして国はソロモンの手に堅く立った。』(1列王記2:46)
ソロモンはこうしてダビデ王の遺言を全うし、不穏分子を王国内から全て取り除いた。
そうしていよいよ、ソロモン王国は確立する。
ソロモン王は、聖書全体を見ると、あまり良い王ではないが、しかしこの時点、彼の将来は「良し」にも「悪し」にも開けていた。
この事は現時点の私達も、同じである。
私達の将来が良しになるか、それとも悪しになるか、それは日々の選択にかかっており、日々、平和の王キリストの支配から離れず、平和の土台から離れないなら、確実に、平安で安全な将来が待っている。