メッセージ - ソロモンの中に密かに入り込んでいた滅びの種(1列王記3:1-4)
ソロモンの中に密かに入り込んでいた滅びの種(1列王記3:1-4)
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- 執筆 :
- pastor 2015-12-16 23:22
ソロモンの中に密かに入り込んでいた滅びの種(1列王記3:1-4)
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『ソロモン王はエジプトの王パロと縁を結び、パロの娘をめとってダビデの町に連れてきて、自分の家と、主の宮と、エルサレムの周囲の城壁を建て終るまでそこにおらせた。』(1列王記3:1)
前章では、王国における不穏分子が全て除かれ、ソロモン王国が確立した事が記されてあった。
そしてこの3章以降、ソロモン王がさらに栄えて行く様が記されているのだが、それに先立って、彼はエジプトの王・パロの娘と結婚した事が記されている。
実はこの事は、これからのソロモンの将来を暗示する象徴的な出来事である。
ソロモン王は、その生涯において、多くの輝かしい実績を残した。
神殿建設もそうであるし、知恵と富と栄誉がふんだんに与えられ栄華を極めた点においては、世の誰にも勝っていたが、しかし彼はイスラエルに偶像礼拝を導入した”悪い王”として、その生涯は終わってしまった。
一体何が、彼をそんなに悪くしてしまったのか。
それはずばり、異邦の女との結婚である。
エルサレムを再建した偉大な指導者・ネヘミヤは言っている。l
『あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない。イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行なっていることを聞き流しにできようか。」』(ネヘミヤ13:25-27)
結婚とは、男と女ふたりの人が、一つのからだとなる事である。
だから、主を信じて神の国の価値観で生きるようになった人と、世の価値観で生きる人とが、結婚する事は、ひっきりなしに自分を打ち叩いく器官を体内に組み入れてしまうような事なのだ。
聖書では、女に惑わされて、してはならない事をしてしまい、その身に呪いを招いてしまった事例を沢山見る事が出来る。
最初の人アダムしかり、洪水前の神の子達しかり、サムソンも、アハブも、そしてソロモンも、皆、女によってその身を滅ぼしてしまった。
男性はそれ程、女性から影響を受けやすいものだという事を知るべきであり、女性もまた、男性の信仰と祈りを煩わせないよう気をつけるべきだ。
『そのころまで主の名のために建てた宮がなかったので、民は高き所で犠牲をささげていた。ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。』(1列王記3:2-4)
ここに出てきた「高き所」というキーワードは、列王記や歴代誌では頻繁に出てくる。
高き所(バーマー)とは、「礼拝する場所」ではあるが、まことの神を礼拝する場所とは限らない。
元々、カナン地方では、山や丘の小高い所や、木の茂った所などに、この「高き所」を築き、そこで偶像礼拝をしていたが、主はモーセを通じ、それらを壊すよう命令していた。
『これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。』(申命記12:1-3)
ヨシュアの時代、それらはことごとく破壊され取り除かれたはずだった。
しかし、イスラエルが次第に土着の者達と連合して行く内に、偶像礼拝がはびこるようになってしまった。
士師記の暗黒時代を経て後、サムエルの時代に宗教改革が為されて偶像は撤廃され、高き所は、主を礼拝する場所となった。(1サムエル記9-10章)
しかし、列王記・歴代誌の中で時代が降って行く内に、「高き所」は次第に偶像礼拝の場所としての意合いが強くなって行き、主を礼拝する場所との区別がつきにくくなって行く。
主は礼拝について、律法で何と言っているか。
『あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。』(申命記12:10-11)
『全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。』(同13-15節)
つまり、本来は主が定められた場所・以外では、気ままに礼拝をしてはならないものであった。
それなのに、ソロモンの時代もそれ以降も、”高き所”はずっと取り除かれないままだった。
本来なら高き所での礼拝は違法だったが、イスラエルの信仰がまだ未熟な時や、まだ不安定だった時は、主の憐れみによって赦されていた。
しかし、各問題が平定され、成熟した時、それらを自ら取り除く事を、主はずっと待っておられたのだ。
しかし高き所がようやく取り除かれたのは、13代目の王・ヒゼキヤ王の時代だった。
今や、イエス様がまことの小羊としてただ一度捧げられた事によって、もはや犠牲としての動物を捧げる礼拝は必要なくなり、どこか神殿などの特別な場所に行く必要は無く、霊と真理によって主を礼拝する時代となった。
今や私達が取り除くべき「高き所」とは、私達が過去に行っていた良くない行いや、忌むべき世のならわしという「高き所」である。
「高き所」での礼拝は、一見良いもののように見えても所詮は主の御言葉から外した礼拝であり、すぐに偶像礼拝へと転換してしまったように、私達も、御言葉に従っていない「一見良いもの」は取り除くべきである。
それは、過去の忌むべき行いかもしれないし、あるいは世の価値観との連合や結婚かもしれない。
それらは、いきなり止める事は出来ないかもしれないが、主の憐れみはいつも注がれており、それを取り除く事ができるまでに成熟した時、取り除くものである。
そのように純粋に主に喜ばれる道を歩み、成熟して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!