メッセージ - 神殿の構成と、私達キリスト者の関係(1列王記6:1-13)
神殿の構成と、私達キリスト者の関係(1列王記6:1-13)
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6章には、ソロモンが建てた神殿の詳細が記されている。
『イスラエルの人々がエジプトの地を出て後四百八十年、ソロモンがイスラエルの王となって第四年のジフの月すなわち二月に、ソロモンは主のために宮を建てることを始めた。ソロモン王が主のために建てた宮は長さ六十キュビト、幅二十キュビト、高さ三十キュビトであった。宮の拝殿の前の廊は宮の幅にしたがって長さ二十キュビト、その幅は宮の前で十キュビトであった。』(1列王記6:1-3)
神殿の機能と構造は、主が荒野でモーセに示された「幕屋」と同じであるが、その寸法は、荒野の幕屋の2倍となっており、また、幕屋よりもさらに尊い素材から造られている。
この「神と人とが相まみえる場」は、幕屋から神殿へと成長し、最後には、神と人とが永遠に共に住む永遠の都として、完成されて行く。(黙示録21章)
『彼は宮に、内側の広い枠の窓を造った。また宮の壁につけて周囲に脇屋を設け、宮の壁すなわち拝殿と本殿の壁の周囲に建てめぐらし、宮の周囲に脇間があるようにした。下の脇間は広さ五キュビト、中の広さ六キュビト、第三のは広さ七キュビトであった。宮の外側には壁に段を造って、梁を宮の壁の中に差し込まないようにした。』(1列王記6:4-6)
ソロモンが建てた神殿が、正確にどのような構造であったのかは、文字での説明しか残されていないため、図解によってはそれぞれに若干の違いは出てくるが、ソロモンが具体的にどんな神殿を立てたのかは、あまり重要ではない。
その事を思い巡らせる事は、知的には楽しい事だが、今、”私達”という「キリストが住まわれる神殿」は、一体どのような特徴を持っているのか、ソロモンが建てた神殿の性質から読み解いて行く事には大いに意義があるので、その観点から見ていきたい。
『宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造ったので、建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、その他の鉄器もその音が聞えなかった。』(1列王記6:7)
神殿の建設現場では、一切、鉄器の音が聞かれない程に、材料があらかじめ全て整えられていた。
当時の建築技術水準がとても高かった事を、伺い知る事が出来る。
なお、祭壇を建てる時は素材とする石は鉄器が当てられてはならず、「自然のままの石」を用いるよう、主がモーセに命じられている。
『またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。』(申命記27:5-6)
『あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。』(出エジプト記20:25)
ところで、ソロモンが石切り場で「切り整えた石」は、ヘブル語では「エベン・シャレーマー」、形容詞シャーレームの女性単数形であり、「自然なままの」「完全な」という意味である。
また、申命記にて、主がモーセに自然のままの石で祭壇を造るよう命じられたその「自然のままの石」は、「アヴェニーム・シェレモート」、これはソロモンの時の石の「エベン・シャレーマー」と同じ意味の、女性複数形である。
神にいけにえを捧げる「祭壇」は、人手が一切加えられない、自然のままの石たち(女性複数形)が用いられるよう命じられているが、ソロモンの神殿は、石切り場で整えられた(あるいは、自然なままの、完全な)、”単数形の石”によって建てられた。
これは、どういう事を意味するのだろう。
預言者ダニエルは、ネブカデネザル王の夢を解き明かした時、その夢の中では、ネブカデネザル王を筆頭とする帝国郡(バビロン、メド・ペルシア、ギリシヤ、ローマ)を象徴する巨大な像があった。
しかしその像は、人手によらずに切り出された一つの「石(男性単数形)」によって粉々に砕かれ、その石は、大きな山となって全土に満ちた。(ダニエル書2章)
この、人手によらずに切り出された(男性単数形の)石、それは間違いなくキリストを表している。
今、教会はキリストの花嫁(女性)であり、キリストこそ、唯一まことの夫(男性)である。
このキリストがあらわれた今、私達・信じた一人ひとり(教会:エクレシアすなわち召しだされた者たち)は、それぞれがキリストを宿す神殿であり(1コリント3:16)、キリストのからだを構成する各器官である。(1コリント12:27)
私達は生物学的には男女はあるが、霊的には、キリストにあって全て女であり、キリストこそまことの男性である。
キリストは私達教会のかしら、すなわち夫であり、私達・信じる者たちの信仰の土台石である。
つまり、主にいけにえをささげる「祭壇」を構成する石が、「女性複数形」であるのは、私達一人ひとりが「生ける石」であり、神によろこばれる霊のいけにえを捧げるためである。
次のように書いてある。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ「生ける石」となって、「霊の家」に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 』(1ペテロ2:5)
では、何によって神の家へと組み込まれ、建て上げていくのか。
それは、イエスを生ける神の御子とする信仰告白によって、である。
『そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(ペトロス:岩盤(ペトラ)から切り離された石ころ、男性名詞)である。そして、わたしはこの「岩(ペトラ、女性単数名詞)」の上にわたしの「教会(エクレシア:集会、集まり、教会。女性単数名詞)」を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。』(マタイ16:15-18)
ペテロは、イエス様を「知らないと言った時、集いから切り離された、自立した、そして心細い一人の男性であった。
しかし彼が再びキリストの集い集まりなおした時、その集いの中に、復活のキリストというまことの夫が入ってきて下さり、その集いは強い岩盤(ペトラ)となって、黄泉の力も打ち勝てないほどの盤石なものとなり、教会は、いかなる迫害にあっても、決して廃れる事は無かったのだ。
そして預言者ダニエルが解き明かした通り、この人手によらず切り出された石は、人間によるローマ帝国を打ち破り、かえってキリスト教国へとしてしまったのだ。
すなわち、私達・キリスト者一人ひとりが、神であるキリストを宿す小さな神殿であり、神の家を築き上げる「生ける石」であり、それぞれが組み合わさって、岩盤(ペトラ)である教会となり、そして教会は、唯一夫なるお方・キリストの花嫁である。
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:12)
そして、祭壇の石には、鉄の道具が当てられてはならないのと同じように、キリストのからだを建て上げる私達一つ一つの石もまた、人手によって切り出されたり、加工されたりしてはならない。
誰でも、人間の知恵によってキリストを信じるものではないし、人の努力によって神に受け入れられる器になれるものでもない。
『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。』と記されている通りである。(1コリント12:3)
つまり、教会は、鉄の道具など人間の強制力によらず、自然に、聖霊の思うがままの導きによって、建て上げていくべきものである。
『そこで主の言葉がソロモンに臨んだ、「あなたが建てるこの宮については、もしあなたがわたしの定めに歩み、おきてを行い、すべての戒めを守り、それに従って歩むならば、わたしはあなたの父ダビデに約束したことを成就する。そしてわたしはイスラエルの人々のうちに住み、わたしの民イスラエルを捨てることはない」。』(1列王記6:11-13)
ここの、13節だけをピックアップするなら、神は決して捨てる事は無い、と見えるが、後の歴史を見ると、神に見放され追放された者であるかのような歴史をたどっている。
それは、12節の条件「主の定めに歩み、おきてを行い、すべての戒めを守り、それに従って歩む」事をしなかったからだ。
私達は、主の道を決して外す事なく歩み、神の家に組み込まれ、神殿の柱となるまでに、主と共に歩んで行きたい。
『忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:10-12)