メッセージ - 祭司達が水の洗いをする「海」と洗盤(1列王記7:23-39)
祭司達が水の洗いをする「海」と洗盤(1列王記7:23-39)
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ヒラムは続いて、祭司が身を清めるための祭具である「海」を造った。
それは青銅の鋳物としてはとても大きく、贅の凝らされたものだった。
『また海を鋳て造った。縁から縁まで十キュビトであって、周囲は円形をなし、高さ五キュビトで、その周囲は綱をもって測ると三十キュビトであった。その縁の下には三十キュビトの周囲をめぐるひさごがあって、海の周囲を囲んでいた。そのひさごは二並びで、海を鋳る時に鋳たものである。その海は十二の牛の上に置かれ、その三つは北に向かい、三つは西に向かい、三つは南に向かい、三つは東に向かっていた。海はその上に置かれ、牛のうしろは皆内に向かっていた。』(1列王記7:23-25)
五キュビトの高さは、180cmの成人男性が、ばんざいした程の高さで、器の厚さは手のひらほど。
これ全部、青銅製である。青銅の器としては、かなりの大きさだ。
『海の厚さは手の幅で、その縁は杯の縁のように、ゆりの花に似せて造られた。海には水が二千バテはいった。』(1列王記7:26)
1バテは23リットルなので、46000リットルの水がその「海」に入った。
日本のガソリンを運ぶタンクローリーは大体20000リットルなので、その2倍の水が入ったのだ。
彼はさらに、洗盤を10個作る。
『また青銅の台を十個造った。台は長さ四キュビト、幅四キュビト、高さ三キュビトであった。・・・四つの車輪は鏡板の下にあり、車軸は台に取り付けてあり、車輪の高さはおのおの一キュビト半であった。車輪の構造は戦車の車輪の構造と同じで、その車軸と縁と輻と轂とはみな鋳物であった。』(1列王記7:27-33)
これら、洗盤をのせるための台は、縦横180センチメートルほどであり、風呂桶を大きくしたくらいのサイズで、車輪がついていて、移動が出来る。
これら、神殿の調度品のために用いられた青銅の分量は、はなはだ多かったため、ソロモンは分量を計らなかった。
また、ずっと後の時代、エルサレムがバビロンによって陥落した時、神殿の柱や「海」をカルデヤ人は破壊してバビロンへ運び去ったが、その青銅の分量はあまりに膨大だったため、彼らも計る事をしなかった。(2列王記25:13-16)
『このようにして十個の台を造った。それはみな同じ鋳方、同じ寸法、同じ形であった。また青銅の洗盤を十個造った。洗盤はおのおの四十バテの水がはいり、洗盤はおのおの四キュビトであった。十個の台の上にはおのおの一つずつの洗盤があった。その台の五個を宮の南の方に、五個を宮の北の方に置き、宮の東南の方に海をすえた。』(1列王記7:37-39)
このように、大きな「海」と、小さくて移動可能な「洗盤」十個を造り、神殿の庭に置いた。
これらのものは、祭司が神殿の務めに入る前に、身を浄めるためである。
主がモーセに幕屋建設を命じた時、祭司が聖なる所で務めに入る前には、水で洗いきよめるよう命じており、そのために、洗盤を造るよう指示されている。
『あなたはまた洗うために洗盤と、その台を青銅で造り、それを会見の幕屋と祭壇との間に置いて、その中に水を入れ、アロンとその子たちは、それで手と足とを洗わなければならない。彼らは会見の幕屋にはいる時、水で洗って、死なないようにしなければならない。また祭壇に近づいて、その務をなし、火祭を主にささげる時にも、そうしなければならない。すなわち、その手、その足を洗って、死なないようにしなければならない。これは彼とその子孫の代々にわたる永久の定めでなければならない」。』(出エジプト記30:18-21)
祭司が祭壇での務めをする前に、手足を水で洗い浄める事は、「永遠のおきて」として定められている。
だからソロモンも、祭司たちのために、これらのものを造らせたのだ。
祭司たちが務めの前に水で洗い浄める理由は、「死なないため」だと主は言っている。
祭壇や幕屋での奉仕は、それ程までに聖なる務めであり、清めないまま聖なる奉仕をする事は、主の怒りを招く事である。
今、私達も、主の務めを為すにあたって、かの祭司たちのように、清められた状態であるべきである。
私達は、どのような”水”によって身を清めるのか。
それは、キリストが語られた御言葉の水によって、であり、それは既に主が為して下さった。
『あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。・・・わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。』(ヨハネ15:3-5)
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26)
私達は、御言葉なるキリスト抜きには、浄められない。
もしキリストに繋がっていないのなら、主の御前に何も出来ないし、そして、しようとしてはならない。
だから、信仰が無い人は、いくら楽器の演奏が巧みだからと言って奏楽奉仕に任じてはならないし、会計やマネジメント力があるからと言って、教会運営を任せたりすると、大変な事になってしまうのだ。
私達は、世という旅路を歩いて来る時、どうしても、世や人々から罪や汚れを受けてしまう。
その汚れを、主は清めて下さった。
『夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。・・・
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。』(ヨハネ13:4-10)
私達はイエス様に足を洗ってもらいっぱなしになっていてはならない。イエス様は、私達も互いにそのようにするようにと、模範を示されたのだ。
だから私達もイエス様にならい、兄弟姉妹どうし、御言葉の水でもって、互いに洗い合うべきであり、それはすなわち、御言葉という水によって霊的汚れを示し、教え、戒め、訓戒し、そして、イエス様の名によって祈り、きよめる事なのだ。