メッセージ - 本来あるべき「礼拝」の再建(ハガイ書1章)
本来あるべき「礼拝」の再建(ハガイ書1章)
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賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
横浜天声キリスト教会が礼拝を始めたのは、2006年からだった。当初は建物は無く、開拓メンバーが場所を間借りして礼拝を行ていたが、その年の4月末に現会堂が与えられ、5月連休からほぼ手作りと手弁当による工事を始め、6月18日、工事が完了し、翌19日にこの会堂で初の正式な礼拝が捧げられた。
当初は日本人は一人もおらず、大人九名と子供三人、韓国教会のメッセージテープによる礼拝であった。
今年、この会堂での礼拝が始まって10周年に当たるが、天声教会設立のビジョンが与えられたのは、もっと遡る事、2001年であった。2001年1月10日、開拓者・川合働き人にハガイ書の御言葉が与えられた。
ハガイ書は主に、神殿を再建しなさいという主の命令であるので、与えられた当初は教会を再建する事と思って祈っていたが、御心を求めて行く内、再建するのは教会よりもむしろ「礼拝」であると分かって来た。
すなわち、教団や教派などに見られるような「既存のキリスト教会システム」の仕組みの支配下にある「既存の教会」を、もう一つ新しく建築するという事ではなく、本来あるべき「礼拝」の再建である。
それが分かったのが2006年の事であった。こうして、既存のしきたりや既定の概念から離れ、ただ「天」からの「声」のみを聞いて歩む、「天声教会」の模索と建設が、そして礼拝の歩みが始まったのだ。この会堂が発足して10年目を迎えたこの時、このビジョンに戻り、再建するべき「礼拝」とはいかなるもので、どのように歩んで行くべきか、そして礼拝を建て上げて行くなら、どこへ行き着くのかを、暫く見ていきたい。
礼拝をおろそかにすると、どんな生活が待っているか。ハガイ書はそこから始まる。
『「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。』 ハガイ書は、主の宮が荒れ果てている状況と、それに引き換え、人々は自分の家を快適に建てあげる事に奔走している様を指摘し、「よく考えよ」と言われる。多く蒔いても取り入れは少なく、飲み食いしても満たされず、着ても温まらず、お金を稼いでも穴の空いた財布に入れるようなものではなかったのか、と。
人は多くを望んでも、得たものは少なかった。主がそれらを吹き払ったからだ。なぜ主は吹き払われるか。
「これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。」(9-10節)
「わたしの家」「主の宮」は、礼拝する所である。もし私達の内の「宮」がおろそかにされているなら、すなわち、礼拝の心が破綻し、主への恐れ敬いが無いなら、穴の空いた財布に入れるような生活なのだ。
聖書で「礼拝」と訳されている語は複数あり、ヘブライ語のシャーハーは「平服する、おじぎする(ギリシア語:ゴニュペテオー)」、シャーラスは「仕える」、アーバドゥは「奉仕する(ギリシア語:ラトゥレイア)」である。
神である主を第一にし、主の御前に身を低くし、主に仕え、主のわざをする。それが礼拝である。
主が第一であるはずの所を、自分を第一にし、主の前に低くなるべきなのに自分を高め、主に仕えるべきなのに、世と自分に仕える。それは「本末転倒」の生き方であり、物事はどんどん悪くなって行くのだ。
「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。」
具体的な行動から始めよ、と主は言われる。礼拝は、「主のため」という動機を心に握りつつ、床から身を起こし、足を踏み出すその一歩から始まる。どんなに立派な宮を建て、どんなに立派な教団に属しても、礼拝者の心がおろそかだと、何にもならない。ソロモンは、贅を凝らした神殿を建築したのに、後の時代、異邦人に破壊され汚されてしまった。主は、礼拝をする「人」の心こそ重んじられ、人に宿られるからだ。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリ3:16)
この教会は、栄光の「礼拝」を回復するように、というビジョンの元に建てられた。すなわち、主イエスを宿した「働き人」という「生きた神殿」を建て上げ、輩出して行くための教会として、使命が与えられている。
それは、自分の家のために奔走するのではなく、キリストのからだを建て上げるために主の山に登り、木を運んで働く人達である。「そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」
実際に今、天声はそのような働き人達が増え、自分の家よりもこの宮にいる事を愛し、主と交わり、主を思い、主のために働く働き人が不在となった日は、ここ数年、一日たりとも無い。そのような教会は、日本に他にあるだろうか。今、この国の霊的状況は暗澹としており、真に「礼拝」を建て上げる働きを必要としている。
そのために豊かに用いられていく皆さんであり、この教会でありますように!