メッセージ - 直接イエス様に触れ、聖められよ(ハガイ書2:10-19)
直接イエス様に触れ、聖められよ(ハガイ書2:10-19)
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週報/メッセージ(説教)概要
天声設立のビジョンが与えられて15年、現会堂が与えられて10年目の節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、ハガイ書から見ている。
前回の箇所の預言がなされて3ヶ月後、神殿の礎が据えられた。その日再び主の言葉がハガイに臨んだ。
「人がその衣服のすそで聖なる肉を運んで行き、そのすそがもし・・・どんな食物にでもさわったなら、それらは聖なるものとなるか』と」。祭司たちは「ならない」と答えた。」(12節) レビ記6章に解答がある。
罪のためのいけにえを主の御前でほふる時、それを捧げる祭司は、それを幕屋の庭の聖なる所で食べなくてはならないのだが、「すべてその肉に触れる者は聖となる」(同27節)と記されている。
つまり、罪のためのいけにえの肉に直接あずかる人が聖となるのであって、それを運んだ衣のすそに触れた人も聖となるのか、と言うと、「否」である。聖とされるのは、真の罪のいけにえとなって下さったイエス様へ直接触れる人であって、イエス様にあずかった「人」に触れても、何もならない。教会の催しや人に何年も関わっていたとしても、その人自身がイエス様に直接関わっていないなら、全然清められない訳である。
「ハガイはまた言った、「もし、死体によって汚れた人が、これらの一つにさわったなら、それは汚れるか」。祭司たちは「汚れる」と答えた。」(13節) この問の答えは、民数記19章に記されている。全て人の死体に触れる人は、所定の通りに清めの水で洗われない限り、汚れており、その人に触れる人も夕方まで汚れる。
「汚れ」は、伝搬するものである。イエス様は特に、人の口から出てくるものが、人を汚す、と言われた。
「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがす」。」(マコ7:20-23)
すなわち、世の口論や、貪欲に由来する言葉、愚痴や噂話などに浸されるなら、思いが汚されるのであり、イエス様の御言葉の清めにあずからなくてはならない。「汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。」と、先の民数記19章に記されており、主はそのような汚れた人が捧げる捧げものは忌み嫌い、その者達の聖会は耐えられない、と言われる。(イザヤ1:13)
主はハガイを通して、主の宮をおろそかにしたままの状態は、まさにそうだった、と言われた。
実際、主の宮の礎が据えられる前は、収穫は、期待の半分以下だった。(ハガイ2:14-16)
イエス様に直接行かず、世の言葉の中で右往左往し、汚れたまま御言葉で清めないでいるなら、期待の収穫は望めない。しかし主は、主の宮の土台石を据えたこの日の後の事を、心に留めよ、と言われる。
『種はなお、納屋にあるか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリブの木もまだ実を結ばない。しかし、わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。』(18-19節)
ユダヤ暦のこの時期は、太陽暦の12月に当たる。種はもう納屋には無く、蒔いた種も、実を結ばないまま冬に突入してしまった。状況としては絶望であるが、主は、はっきりと言われた。主の宮の礎を据えた今日から、後のことを考えよ、と。この日から、あなた方に恵みを与える、と、自信をもってはっきり言われた。
礼拝の建て直しと清めは個人個人のものであり、教会に頼りっぱなし、働き人に頼りっぱなしのものでない。
もし「汚れ」の自覚があるのなら、あるいは期待した収穫が望めない状況であるなら、長血の女が自分からイエス様の所に行き、信仰をもって手を伸ばしてイエス様の衣のふさに触れたように、自分からイエス様に進み行って、信仰をもってイエス様に手を伸ばすべきである。(マルコ5:25-34)
彼女は12年も長血を患い、律法上汚れた者として、12年も礼拝に参加できず、人から触れられず苦しんで来たが、多くの医者にかかって全財産を費しても、何のかいもないばかりか、ただ悪くなる一方であった。
ところが唯一、罪汚れをキャンセルさせて下さる御方、イエス様に手を伸ばし、彼女は全てが癒やされた。
お金も、世の言葉も、世の知恵も、罪に対し、汚れに対し、大地や経済の実りに対し、何の力も持たない。
実りも、金銀も、癒しも、天地に満ちているものも、全て主のものである。この主に、自ら個人的に進み行き、手を伸ばし、関わりを持ってこそ、全ての回復につながるのだ。私達が主を礼拝する土台を据えるなら、今日から後の事を考えよ、と言われる。礼拝の土台を据え、全ての面で豊かにされる皆さんでありますように!