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メッセージ - 奉献の祈りの後の盛大な祝賀式(1列王記8:54-66)

奉献の祈りの後の盛大な祝賀式(1列王記8:54-66)

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礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1列王記
執筆 : 
pastor 2016-1-25 23:50

奉献の祈りの後の盛大な祝賀式(1列王記8:54-66)
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『ソロモンはこの祈と願いをことごとく主にささげ終ると、それまで天に向かって手を伸べ、ひざまずいていた主の祭壇の前から立ちあがり、立って大声でイスラエルの全会衆を祝福して言った、「主はほむべきかな。主はすべて約束されたように、その民イスラエルに太平を賜わった。そのしもべモーセによって仰せられたその良き約束は皆一つもたがわなかった。』(1列王記8:54-56)
ソロモンは、それまで神殿奉献の祈りを、跪いて主に捧げていたが、それを終えると立ち上がってイスラエルの民全体の祝福の祈りに入った。
彼は祈りの最初に「主はほむべきかな」と主を賛美している。なぜなら主は、約束して下さった事を、何一つ違えず、誠実にその民に為して下さったからだ。

続いてソロモンは、イスラエルの民について3つの事を願い、執り成している。
『われわれの神がわれわれの先祖と共におられたように、われわれと共におられるように。われわれを離れず、またわれわれを見捨てられないように。われわれの心を主に傾けて、主のすべての道に歩ませ、われわれの先祖に命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように。主の前にわたしが述べたこれらの願いの言葉が、日夜われわれの神、主に覚えられるように。そして主は日々の事に、しもべを助け、主の民イスラエルを助けられるように。』(1列王記8:57-59)

つまり3つの願いとは、主が我々を「見捨てられないように」、「命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように」、「助けられるように」である。
主は私達を助け、決して見放さず、見捨てられないと、聖書に書いてあるが、それなら、この「主が自分達を見捨てられないように」「助けられるように」という祈りは、無駄なのだろうかというと、そうではない。

もし私達が、主の御言葉と主が為してくださった良きわざを軽んじてしまい、主への恐れを捨て、主から離れるとするなら、恐ろしい刑罰が待っている事は、旧約でも新約でも変わらない。
『モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:28-29)
だから、「主が我々を見捨てられないように」「助けられるように」「自分達を主の道に歩ませ、命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように」と祈る人は、主への健全な恐れがある証拠であり、またその人が、主の道を誠実に歩もうとする意図がある事の表明でもある。
だから、私達が「主は決して私達を見放さず見捨てられない」という信仰が、確信に至るまでは、大いにその祈りをするべきである。

『そうすれば、地のすべての民は主が神であることと、他に神のないことを知るに至るであろう。』(1列王記8:60)
ソロモンは、自分が祈った事の動機を、「地のすべての民は、主が神であることと、他に神のないことを知る」ためとした。
そう、神である主は、元から全世界の主であり、救いは何も、イスラエルに限定されたものではない。

主は、確かにアブラハムを選び、区別された。
しかしそれは、アブラハムの子孫であるユダヤ人「だけ」を救うためではなく、アブラハムの子孫であるユダヤ人を通して、全世界に救いがもたらされるためである。
「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:22-24)

つまり、救いは血筋や生まれつきによるものでなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によるものであり、そして真の礼拝は、何処かの神殿でするものでなく、霊とまことによって為すものである。
この救い主、イエス・キリストを世に輩出するために、父なる神はアブラハムを選ばれ、ユダヤ人を律法によって整えたわけである。

ソロモンは最後に、民に対し、くぎを刺す。
『それゆえ、あなたがたは、今日のようにわれわれの神、主に対して、心は全く真実であり、主の定めに歩み、主の戒めを守らなければならない。』(1列王記8:61)
祝福の日々とは、神がただ一方的に与えるものではない。
人の側にも、主に対して守るべき義務があり、それは、「神、主に対して、心は全く真実であり、主の定めに歩み、主の戒めを守」り続ける事である。

このように奉献の祈りと民への祝福は終わり、そして、盛大な祭りに入る。
『そして王および王と共にいるすべてのイスラエルびとは主の前に犠牲をささげた。ソロモンは酬恩祭として牛二万二千頭、羊十二万頭を主にささげた。こうして王とイスラエルの人々は皆主の宮を奉献した。その日、王は主の宮の前にある庭の中を聖別し、その所で燔祭と素祭と酬恩祭の脂肪をささげた。これは主の前にある青銅の祭壇が素祭と酬恩祭の脂肪とを受けるに足りなかったからである。』(1列王記8:62-64)
とんでもない分量のいけにえである。
確かにそれだけのいけにえを捧げられたソロモンの富んでいる様や、太っ腹さは、目を見張るものがある。
しかし私達は、ここからは、それだけの動物のいのちが犠牲となった事に、思いをはせるべきである。

なぜ、「いのちの犠牲」が発生するのか。
それは、人の罪の「つぐない」となるためであり、罪による死の「身代わり」となるためであり、そして、神との和解を成立させるためである。
私達は、尊い犠牲となっていのちを捧げられた、神の小羊イエス・キリストを覚えるべきである。
彼は、私達の罪を赦すため、私達の「死」を身代わりとして負うために、そして、私達と神との和解を成就させて下さるために、自ら犠牲となって十字架の上で捧げられた。
私達はこの主イエス・キリストをこそ愛し、彼と共に歩み続けるべきである。

『その時ソロモンは七日の間われわれの神、主の前に祭を行った。ハマテの入口からエジプトの川に至るまでのすべてのイスラエルびとの大いなる会衆が彼と共にいた。八日目にソロモンは民を帰らせた。民は王を祝福し、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに施されたもろもろの恵みを喜び、心に楽しんでその天幕に帰って行った。』(1列王記8:65-66)
こうして、盛大な奉献式が終わった。
イスラエルにとって、まことに喜びと祝福の絶頂の時期である。
主を愛し、御言葉を守り行うなら、確かに、このような祝福を受ける。
しかし大事な事は、その誠実をキープし続け、主と共に歩み続ける事だ。

ソロモンは確かに幾千・幾万のいけにえを捧げた。
しかし、それよりも主が求められる事を、預言者ミカは記している。
『わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。』(ミカ6:6-8)

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