メッセージ - 国をこぞって偶像礼拝へと導いたヤロブアム(1列王記12:21-33)
国をこぞって偶像礼拝へと導いたヤロブアム(1列王記12:21-33)
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- 執筆 :
- pastor 2016-2-17 23:50
国をこぞって偶像礼拝へと導いたヤロブアム(1列王記12:21-33)
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『ソロモンの子レハベアムはエルサレムに来て、ユダの全家とベニヤミンの部族の者、すなわちえり抜きの軍人十八万を集め、国を取りもどすために、イスラエルの家と戦おうとしたが、』(1列王記12:21)
レハブアムは、新しい王となってから最初に人々からの相談に乗った時、荒々しく威張り散らした故に、人々から見限られ、イスラエル10部族が、彼の元を離れて行ってしまった。
その事に対しレハブアムが取った行動は、軍隊を招集し、離れて行った彼らに戦争を仕掛けようとした事だった。
全くもって、王の器に相応しくない事この上ないが、彼が王とされたからには、きっと、彼が一番、ソロモンの大勢いるであろう子供達の中で、まともだったという事だろう。
ソロモンは余程、跡継ぎに恵まれなかったようだ。彼はこう言っている。
『わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。』(伝道者の書2:18-19)
愚かな王の、愚かな動機によって、あわや、神の民同士で戦争となる所であったが、主はそれを止めさせる。
『神の言葉が神の人シマヤに臨んだ、「ソロモンの子であるユダの王レハベアム、およびユダとベニヤミンの全家、ならびにそのほかの民に言いなさい、『主はこう仰せられる。あなたがたは上っていってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエルの人々と戦ってはならない。おのおの家に帰りなさい。この事はわたしから出たのである』」。それで彼らは主の言葉をきき、主の言葉に従って帰っていった。』(1列王記12:22-24)
レハブアムは、一人の預言者・シェマヤの言葉に従った故に、イスラエル全体が戦火に巻き込まれる事は免れた。
シェマヤは、当時活躍した預言者であるが(2歴代誌12:5-8)、列王記はこれ以降も、さらに多くの預言者達が登場し、イスラエルに神の御心を伝える。
これ以降の記述を見ていくと分かるのは、イスラエルは、王の命令や王が定めた法令よりも、預言者の言葉どおりに、物事が展開して行く事だ。
すなわち、神の民の中においては、どんなに権威ある人間の思惑よりも、主が伝えられた御言葉の通りに物事が進んで行くのだ。
さて、北イスラエル王国の王となったヤロブアムは、どうだったか。
『しかしヤラベアムはその心のうちに言った、「国は今ダビデの家にもどるであろう。もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」。』(1列王記12:26-27)
彼は恐れたが、その恐れは、的外れである。
なぜなら、主は彼に預言者を通し、彼の家はダビデのように長く続く事が約束されているからだ。ただし、彼が主の道に歩むならば。
だから、彼が為すべきは、ダビデにならい、主の道に歩みつつ統治する事であるのに、彼はこの後、身勝手な「自分を救う方法」を編み出し、主の御旨に反する事をするようになってしまう。
『そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、民に言った、「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」。 そして彼は一つをベテルにすえ、一つをダンに置いた。この事は罪となった。民がベテルへ行って一つを礼拝し、ダンへ行って一つを礼拝したからである。』(1列王記12:28-29)
彼はなんと、出エジプトの時に、あの苦々しい災いをもたらした金の子牛を造り、これこそ、あなたがたをエジプトから導き上った神だ、と宣言したのだ。
そうして、イスラエルの何百万という人々が、正統な場所で礼拝を捧げる事を止めさせ、代わりに自分が造った金の子牛を拝ませたのだ。
主は『わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。』と言われたが(マルコ9:42)、彼は何百万という人々をつまづかせてしまった。
何という災いな事を、してしまったのだろう。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。』(ヤコブ3:1)
彼は、さらに罪を重ねる。
『彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない一般の民を祭司に任命した。またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように行い、彼が造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の祭司をベテルに立てた。こうして彼はベテルに造った祭壇に八月の十五日に上った。これは彼が自分で勝手に考えついた月であった。そして彼はイスラエルの人々のために祭を定め、祭壇に上って香をたいた。』(1列王記12:31-33)
現代風に言うなら、勝手に新しい教義を編み出し、その中ではイエス・キリストを救い主の座から引き降ろし、自分が造った偶像を「救い主」として拝ませ、牧師としての召命も訓練も無い人を任命して、主日でない別の日を礼拝する日にしてしまったようなものである。
それも、自分自身の「保身」のために。
「保身」とは元々、何か脅威がある時に自分の立場を守るために為すものであるが、ただ、彼の頭の中に「恐れ」があっただけで、そもそも脅威など実存していなかったのだ。
私達も、ヤロブアムの道に迷い込まないよう、気をつけるべきだ。
彼は、主から与えられた言葉に心を置く事をせず、人々の目が気になり、自分の立場が危うくなるのでは、と「根拠なき恐れ」に捕らわれ、それで彼は御旨に逆らう事をしたのだ。
私達も、人の目や自分の人気、自分の立場を失う事を恐れるあまり、御言葉に妥協したり、あるいは御言葉に真っ向から反する事をするなら、かえって災いを招いてしまう。
もし、人の上に立つ立場として、御言葉に反することを人に教えたり、あるいは強要したりするなら、そのような者は、「大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい」のだ。
今、世の中では、自分の保身や人気取りのために、キリストでないものにも救いがあると言ったり、同性愛は罪ではないと言ったり、そのような「人間の教え」を広める事によって、人々を滅びへと導く者もいるが、とんでもない事である。
むしろ私達は、御言葉に記されている事を人々にそのまま伝え、地の塩、世の光として正しく導く者でありたい。