メッセージ - ヤロブアムの造った偶像の祭壇に対する預言(1列王記13:1-10)
ヤロブアムの造った偶像の祭壇に対する預言(1列王記13:1-10)
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- 執筆 :
- pastor 2016-2-18 23:50
ヤロブアムの造った偶像の祭壇に対する預言(1列王記13:1-10)
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ヤロブアムは、イスラエル10部族全体を偶像礼拝へ導くという大きな罪を犯したが、主は彼をいきなり打ち滅ぼすという事はせず、警告し、悔い改めの機会を与えられる。
『見よ、神の人が主の命によってユダからベテルにきた。その時ヤラベアムは祭壇の上に立って香をたいていた。』(1列王記13:1)
この無名の神の人(預言者)は、主(エホバ)の命によって、すなわち、主から直接的な特命を帯びて、南ユダ王国から、来た。
もはや自国・北イスラエル王国には、ヤロブアムの主への違反を戒める者は、誰もいなかったという事だろうか。
彼が言葉を告げた先は、意外な事に、人間に対してではなく、ヤロブアムが造った偶像の祭壇に対して、であった。
主は預言者に、実に色々なものに対して「預言せよ」と言われる。
例えばエゼキエルは、主から「ひからびた骨」や「息」に対して預言せよ、と言われた。
主の言葉を伝える人・預言者に、主から要求される事は、主から託された言葉は忠実に伝える事である。
『神の人は祭壇にむかい主の命によって呼ばわって言った、「祭壇よ、祭壇よ、主はこう仰せられる、『見よ、ダビデの家にひとりの子が生れる。その名をヨシヤという。彼はおまえの上で香をたく高き所の祭司らを、おまえの上にささげる。また人の骨がおまえの上で焼かれる』」。』(1列王記13:2)
この祭壇に対する預言は、ダビデの家から生まれる人、具体的にヨシヤ(「主は支えてくださる」という意味)という名の人によって汚される、というものだった。
このベテルという場所は、南ユダ王国と北イスラエル王国の境付近に位置するが、既に北イスラエルの領土であって、ダビデの子孫のものではなかった。
そこが、南ユダ王国の人によって破壊される、と言う事は、やがてはこの”重要な祭壇”は南ユダ王国の手に渡って、破壊されてしまう、という事だ。
北王国の滅亡と、南王国の繁栄も暗示している。
実際、その事は、およそ300年後に起こった。
そのおよそ300年後、ヨシヤという王が実際に生まれ、その時は北イスラエル王国は既にアッシリヤによって滅ぼされた後で、ヨシヤは、荒んでしまったイスラエルの神・主に対する礼拝の回復を行った善王である。(2列王記22章)
300年も前から、既に、「誰々によって」事が起こされる、と言われたのは、実に驚くべき事だ。
主はさらに、目に見えるしるしをその場で与えられる。
将来、確かに主がその事を行う、という事を示すために。
『その日、彼はまた一つのしるしを示して言った、「主の言われたしるしはこれである、『見よ、祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ出るであろう』」。ヤラベアム王は、神の人がベテルにある祭壇にむかって呼ばわる言葉を聞いた時、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ」と言ったが、彼にむかって伸ばした手が枯れて、ひっ込めることができなかった。そして神の人が主の言葉をもって示したしるしのように祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。』(1列王記13:3-5)
実際に、目に見えるしるしとして、事が起きた。
ヤロブアムは、この預言者を捕らえよと言って、手を伸ばしたが、その手がしなびてしまうという、預言していない事までも、起きた。
主は元々、祭壇に対して預言したのであって、ヤロブアムに対してではなかった。
それは、主が忌み嫌われるのは、偶像の祭壇であって、ヤロブアムではなかったからだったが、主が忌み嫌われる偶像の祭壇を擁護して、主の預言者を害しようとするなら、いかに主が任命された王ヤロブアムであろうと、その指図をする「手」は、しなえさせる、という事だ。
全能の神・主の軍配は、明らかに預言者の側に上がったのは、誰の目にも明らかとなった。
『王は神の人に言った、「あなたの神、主に願い、わたしのために祈って、わたしの手をもとに返らせてください」。神の人が主に願ったので、王の手はもとに返って、前のようになった。』(1列王記13:6)
主は、ヤロブアムの手を、戻して下さった。
それは実に、主の憐れみによる。
ヤロブアムはこの時、「あなたの神、主」と言っており、主は既に「わたしの神、主」でなくなってしまっていた事は、情けない事だが、ヤロブアムはこの事件を機に、全能の主を「わたしの神、主」として、立ち返るべきであった。
『そこで王は神の人に言った、「わたしと一緒に家にきて、身を休めなさい。あなたに謝礼をさしあげましょう」。神の人は王に言った、「たとい、あなたの家の半ばをくださっても、わたしはあなたと一緒にまいりません。またこの所では、パンも食べず水も飲みません。主の言葉によってわたしは、『パンを食べてはならない、水を飲んではならない。また来た道から帰ってはならない』と命じられているからです」。こうして彼はほかの道を行き、ベテルに来た道からは帰らなかった。』(1列王記13:7-10)
この預言者のミッションは、ただ単に言葉を伝えたら終わり、ではなかった。
その場所では、一切飲み食いせず、一切の交わりをせずに帰る所まで、であった。
主の言葉をそこに撒いたなら、一切の人間的な飲み食いはせずに、すぐに帰る。
人間的な言葉や、目をくらませる飲み食いの接待は、一切させる隙を与えるな、そうして、ただ主の言葉だけがそこに置かれるようにせよ、という事だろうか。
私達も、御言葉を伝える時、肉的な飲み食いや、人間的な接待によって、伝えるべき主の言葉を、くらまされるような事が無いようにするべきだ。
この事を通して、主は、ヤロブアムに立ち返って欲しかったのだろう。
もはや多くの人達を惑わして、滅びに導くような事は止めて、力強く憐れみに富まれた主に立ち返って欲しかっただろう。
しかし残念ながら、後の彼は、そうではなかった。
主に「立ち返らない」道を突き進んでしまう彼の名は、後に、悪の王の代名詞的な存在として、後世に記憶されてしまう。
私達はここから、大いに戒めを受けるべきである。