メッセージ - 「アドナイ・イルエ」の意味(創世記22:9-14)
早天祈祷会
「アドナイ・イルエ」の意味(創世記22:9-14)
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『それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。』(創世記22:14)
アブラハムが大切なひとり子・イサクを捧げた場面も、この「アドナイ・エレ」という言葉は「主の山に備えあり」という意味である事も、クリスチャンの間ではとても有名である。
この「アドナイ・イルエ」の言葉の意味を、今一度よく学びたい。
この言葉を分解すると「エホバ(主)+ラアー(見つめる)」であり、「ラアー(見る)」は、未完成形となっている。
すなわち原意は「主は(ずっと)見つめ(続けて)おられた」である。
つまりアブラハムは、エホバなる主は、自分をずっと「見つめておられた」、と告白しているのである。
彼がイサクを捧げた時に至るまで、ずっと。
人間の、主と共に歩んでいくべき歩みは、いつまで続くかは、分からない。
せっかくひと度、信仰に入っても、途中で脇道に逸れてしまって、そうして人生を終えてしまう人もいる。
アブラハムの父・テラは、カナンへに行くべき道のりの途中で、脇道に逸れ、カランという地でストップしてしまい、目標地点であるカナンに至らないまま、寿命が来てしまった。
それで彼の名は、聖書には、ほんの僅かしか残されなかった。
アブラハムも、12章で主に召しだされて以来、ずっと、脇道に逸れてしまう危険性は、あった。
彼も途中、何度か失敗もし、脇道に逸れそうになったが、その都度、主の望まれる道へと持ち直し、主と共に「継続して」歩みつづけてきた。
私達もまた、アブラハムのように、地上での歩みを全うし、体が贖われる時に至るまで、「継続して」主と共に歩み続ける必要がある。
ヤコブは言う。
『わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ(テレイオー)、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。』(ヤコブ2:21-23)
アブラハムの信仰は、彼がイサクを捧げた時、全うされた、と書いてある。
つまり、彼がその「行い」を実行するまで、彼の信仰は、全うされていなかったという事だ。
彼がイサクを捧げたその時、創世記15章の「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が、全うしたのだ。
主を信じるなら、確かに、義と認められる。
そしてその信仰は、行いが伴った時、完全なもの(テレイオー)となるのだ。
アブラハムはイサクを捧げた時、神から「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と言われ、気づいたのだ。
神は実は、この時までずっと「アドナイ・エレ」しつづけておられたのだ、と。
すなわち神は、アブラハムが神を信じた時からずっと、彼を「見つめ続けて」おられ、彼が「イサクを捧げる」という行いによって、彼の信仰が「完成(テレイオー)」するのを、ずっと見つめ続けておられたのだ。
私達も、信じたなら、神は私達を見つめ続けておられる。
私達の信仰が、私達が行う事よって、全う(テレイオー)するのを、今か、今か、と。
『こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。・・・霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。』(ヤコブ2:23-26)
私達は今一度、この御言葉に立ち、信仰による行いの重要性を再確認したい。