メッセージ - 黙示録と向き合うにあたり(黙示録1:1-3)
黙示録と向き合うにあたり(黙示録1:1-3)
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ヨハネの黙示録。
聖書の一番最後の書物であり、最も「難解」と言われて来た書であり、おそらく最も議論や解釈の分裂などがなされて来たであろう、色々な意味で特別な書である。
黙示録は、ギリシア語では「アポカルプシス」、この言葉がこの書の一番最初に登場する単語、なおかつ、その言葉は全黙示録22章を端的に表現している言葉でもある。
この言葉を分解すると、
「アポ」(はがす)+「カルプシス(覆っている)」
すなわち、「覆われていたものを露わにする」意味がある。
なお、黙示録の英語「Revelation」は、ラテン語の「revelatio(暴露、すっぱ抜き)」に由来する。
日本語の「黙示録」という訳し方は、あまり良い訳し方ではない。
なぜなら、日本語の「黙示」は、「?はっきりと言わず、暗黙のうちに意志や考えを示すこと」と、「?ユダヤ教・キリスト教で、神が人に隠されていた真理や神の意志を啓示すること」の、互いに相反する、2つの意味を持っており(大辞林 第三版)、そして一般的に黙示録を言う場合、特に?の意味合いが強く打ち出されてしまっているからである。
だから「啓示録」と訳す方がむしろ正しいのだが、いかんせん、一部の異端が既に「啓示」「啓示録」の言葉を採用してしまっているため、この言葉を用いると、誤解されてしまうきらいが無きにしもあらずであるのが、悩ましい所だ。
確かに多くの人々は、黙示録について、何か難しそうで、怖そうな、そして、迂闊にタッチできないようなイメージを持っている。
現に、何十年も存続している教会であっても、黙示録からは一度もメッセージした事が無いケースも多いようだ。
黙示録が難しい、と思う理由の一つとして、黙示録には、暗喩(シンボル)が多い事があげられるだろう。例えば、7つの封印やラッパや鉢による裁き、あるいは14万4千の聖徒達や、象徴的な数字666など。
そして、それらの記事を巡って、多くの解釈が生まれ、「自分達こそ、あの14万4千人である」「自分達こそ、あの二人の証人である」などと主張する異端も、多く生まれてきた。
これらの多くの議論や騒動、分裂や戦いなどの故に、歴史上、何度も煙たがられ、避けられて来た黙示録ではあるが、主は次のように言っておられる。
『この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。』(黙示録22:10)
主がそう言われたからには、この書は封じて置くべきではない。
もし上記のような理由によって、黙示録を否定的に考え、封じられてしまっているとしたら、それは、サタンの企みが、成功してしまっている事になる。
もし私達の中に、この書についてメッセージしたり読み解いたり「しないほうが無難だ」という考えがあるとするなら、それをこそ払拭すべきだ。
主が『この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。』と言われたのだから。
アポカルプシスは、覆いが剥がされた、隠されていたものが暴露されてすっぱ抜かれた、という意味があり、世の初めから隠され封印されていた事を、主が、一つ一つ剥がし、明らかにして行く書である。
実際、主はヨハネに直接的に見せて下さった幻や象徴の意味を、直接的に解き明かして下さった箇所は、この書の中に多くある。(1:20、17:7,11など)
主が明示して下さった事については、根拠なき解釈を加えたりはせず(例えば、14万4千は私達を意味するとか、主の御前に立つ二人の証人は何処どこの教団である、等)、主が直接説明された事、書かれてある事は、そのまま受け止めていきたい。
また、その場で直接的な説明がされていない場合は、今までして来た通り「聖書の解釈は聖書から」のスタンスに立ち、主が何をそこで言われているのかを、探って行きたい。
御言葉は、全て「連れ合い」があるもので、その互いの御言葉を知る事によって、旧約の預言が新約で成就した事の確証を得たり、あるいはその逆をも知る事が出来るのだ。
『あなたがたは主の書をつまびらかに/たずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。』(イザヤ34:16)