メッセージ - キリストの受難を前に(マタイ26:1-16)
キリストの受難を前に(マタイ26:1-16)
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二日後が、受難の金曜となる。
『「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される。」そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。しかし彼らは言った、「祭の間はいけない。民衆の中に騒ぎが起るかも知れない」』(マタイ26:2-5)。
イエス様ご自身が十字架につけられる事は、既に弟子達に何度か告げられたが、イエス様を闇に葬りたいと願う者達は、祭りを前に、相談する。
あのイエスを殺すなら、(過越しの)祭りの間は、いけない、と。それは、彼らが群衆を恐れていたからである。
しかし、結果的に主は、その過越しの祭りの最中に殺される事になる。
過越しの祭。それは、イスラエルの民がエジプトから開放される前夜、主の命令によって、それぞれの家庭で傷の無い小羊を準備し、それをほふってその血を家の扉に塗って、しるしとし、そのしるしのある家には、死の災いは降らず、しかし、しるしの無い家には長男が死ぬという死の災いが降された事、それをもって、イスラエルはエジプトの奴隷状態から開放された事をおぼえる祭りである。
この過越しの小羊は、十字架上でほふられたキリストを意味している。
イエスキリストの十字架、身代わりにほふられた小羊。死の災いを免れる血潮。キリストと過越しの小羊とは、決して切り離せない。
だから、人がいかにキリストを無きものにしようとした所で、また、権威ある人達がいかに長い審議を凝らしたところで、神の御旨が損なわれる事は無い。
彼らと対照的に、イエス様の死のために素晴らしい準備をした女性がいた。
『さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。』(マタイ26:6-10)
彼女はベタニヤのマリヤである。彼女はいつもイエス様の足元でイエス様の話に聞き入っていた。
だから彼女は、イエス様の葬りのために、自分が取っておいたものの中で一番高価なナルドの香油を一滴も残さず捧げ尽くしたのだ。
尊くてやまないイエス様に対しては、持てる最上のものを注ぎ尽くしても、なお足りない。
それが成熟した信仰者の姿である。
彼女の、主への尊敬と愛、信仰を、そのナルドに混ぜて注ぎ尽くしたその香りは、御前でいっそう尊くなり、その香りは、家全体に満ち、天に登り、永遠の記念として全世界へと広がった。
これこそ主に喜ばれる最高の香りであり、私達も、尊くてやまないイエス様に愛と尊敬を混ぜ、持てる最高のものを捧げる時、それは天に立ち昇り、永遠の記念として残るのだ。
しかし、永遠に蔑みの対象となってしまった者も、そこにいた。
『時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。』(マタイ26:14-16)
イエス様を引き渡すなら、いくら、くれますか?
イスカリオテのユダは、使えばなくなってしまう銀をいくばくか得るために、尊き御方を売り渡してしまったが、私達も彼のように、あさましい理由のためにイエス様を売って、それと引き換えに、世の楽しみをいくばくか得るような事をしていないか、自らを点検するべきである。
イエス様の受難を覚えるこの時、私達もマリヤのように、キリストの足元に低く座し、キリストのことばに耳を傾け、キリストの御思いを余す所なく受取るものでありたい。