メッセージ - 十字架を前に、この上ない愛を示されたイエス様(ヨハネ13:1-30)
十字架を前に、この上ない愛を示されたイエス様(ヨハネ13:1-30)
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使徒ヨハネは、彼の福音書にて、十字架前の晩餐でイエス様が言われた事、また為された事について、13章から17章まで詳細に記している。
ヨハネ福音書は、全体の半分近くが、キリストの受難から死、そして復活、そして復活後について、書面を割いているのが、特徴的である。
『過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを「入れて:バロー:投げ入れる」いたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。』(ヨハネ13:1-5)
イエス様は、十字架の死を前に、彼に属する人達を「最後まで(テロス:極限まで、徹底した、完全な)」愛し通された。
肉体を持った体では、もうじき別れてしまう彼らを、イエス様はいとおしみ、愛を余すところなく示され、そして最後に示さなくてはならない事を示されるために、イエス様は自らかがんで、弟子たち一人ひとりの足を洗って下さった。
それも、イエス様はイスカリオテのユダが裏切る事を知っていながらにして、彼の足も洗って下さったのだ。
『悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを「入れて:バロー:投げ入れる」いた』
悪魔は、人の心に、悪魔由来の悪しき思いや、汚れた情欲、邪悪なはかりごとなどを、投げ入れる事がある。
私達はその時、その「はかりごと」をとりこにして、キリストに服従させなくてはならない。
次のように書いてあるからだ。
『わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思い(はかりごと)をとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(1コリント10:4-6)
イエス様はこの時、裏切ろうとしている者がいる事を、それとなく2度、示唆したが(11,18節)、しかしその示唆は、当人を変える事なく、また誰も悟る事なく、むなしく空に響いた。
主が「自分」に向けて語られているのに、それを聞いていなかったり、悟らなかったり、あるいは、主は自分の事を語っているのだと、うすうす分かっていても、うるさがって敢えて無視したりする時、主は霊の激動を感じ、あかしして、はっきりと言われる。
「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている。」(21節)
イエス様はこの直前、わたしを受け入れる者はわたしを遣わした方を受け入れる、と言われた。つまりイエス様を裏切る者は、イエス様を使わされた御父を裏切る事だ。
それがどんな重い永遠のさばきを招く事になるか。
イエス様は、自分を裏切るような者は、生まれなかったほうが良かった、とさえ言われた。(マルコ26:24)
こんな酷い永遠の裁きへと行ってしまう性質を、決してのらりくらりとかわさず、しっかり対処せよ、その思いを捨て去れ、と、真正面からはっきり言われたのではなかろうか。
ペテロはヨハネを促し、尋ねさせた。その者は誰か、と。
イエス様は、「それはわたしがパン切れを浸して与える者」だと答えられ、そしてパン切れを浸し、それをイスカリオテ・ユダにお与えになった。
実に不思議なのは、その後の弟子達の反応である。
ユダになぜそう言われたのか、「誰も分からなかった」というのだ。
パン切れを浸してユダに渡した、のであれば、ユダが裏切ろうとしている事を示したのは、明白な筈なのに。
どういう事だろう。
パン切れ(「プソーミオン」:一口サイズにちぎった食物)を、浸して渡す行為は、母が小さい子にちぎって食べさせてあげるような、愛情の意思表示である。
主は、一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持って欲しいと願っておられる。
ユダ、わたしはあなたを大切に思っている、どうか、永遠の滅びの行為を止め、主の弟子としての栄誉を取り戻して欲しい・・・主はそう願っておられたはずだ。
イエス様は、ユダが裏切りのくちづけをした時も、最後まで「友よ」と呼びかけた。(マタイ26:50)
そういうわけで、イエス様のこの時のユダに対するその表情、その立ち居振る舞いが、あまりに愛情に満ちていたから、弟子たちは、まさかユダに裏切り者だという事を示す行為だとは、到底思えなかったのではないだろうか。
ところがユダは、パン切れを受けた時に入ったのは、イエス様の愛ではなく、サタンだった。
なんだ、バレたのか。
なんだ、この善人面した集団は!
そのような、自分を改めない性質の心に、サタンは好んで入る。
イエス様に洗い清められ、汚れが取り除かれてきれいになった時に出来た「心の隙間」を、イエス様へを慕う心や御言葉で満たすなら、サタンが入り込む余地は無くなるのだが、もしそこを、空っぽのままにしておくなら、前よりももっと邪悪な者が入ってしまい、以前よりももっと悪くなってしまうのだ。(マタイ12:43-45)
だから、罪が戸口で恋い慕って待ち伏せている時、私達は、それを治めなくてはならないのだ。(創世記4:7)
イエス様は、そんなユダに「しようとする事をしなさい」と言われ、裏切る自由をも尊重された。
イエス様を裏切る自由は、確かにある。
しかし、もし敢えてイエス様を裏切るなら、生まれて来なかったほうが良かった程の、永遠の地獄を味わってしまうのだ。
裏切る自由を行使して裏切ったユダの行き先は、使徒1章に記されている通り、ハラの中にあるものが全部飛び散って露わにされ、イスラエル中の人が知る事となり、そして使徒としての特権は、他の人に取られてしまった。
今、私達には自由が与えられている。
しかしその自由を間違えて使うとするなら、自分のいのちを永遠に踏みにじる事になる。
与えられた自由は、イエス様に喜ばれる事のために用いるべきだ。(ガラテヤ5:13)