メッセージ - キリストが復活された事の幸い(マタイ28:1-15)
キリストが復活された事の幸い(マタイ28:1-15)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日は復活祭(イースター)、私達の主イエス様が復活された事を記念する日である。
イエス様はひと度、十字架上で、完全に死なれた。ヨハネや母マリヤ、ローマ兵や百人隊長、その他、多くの人達の目前で息を引き取り、槍で突かれると、血と水が流れた。死後硬直しつつある遺体は降ろされ、岩窟の墓に葬られ、その入り口は大きな石で塞がれ、封印され、兵士が番をした。弟子達は皆、イエス様がよみがえるとはつゆ思わず、絶望し、恐れ、隠れた。それ程、イエス様は完璧に「死に尽くした」のである。
しかし、イエス様は完全に、復活された!女達がイエス様の遺体に防腐処置しようと墓に行った時、ローマの封印は破られており、入口を塞いていた大きな石は脇にやられ、見張っていた兵士達は、死人のようになっていた。そして墓の中に遺体は無く、ただ体を巻いていた布が置き去りにされていたのみだった。
ローマは当時の最高権威であるが、いかに人が最高権威をもってしても、復活のいのちは、妨げられない。
よみがえられたイエス様は、十字架までついて行った女達に真先にあらわれ、弟子達にも現れ、また多くの人々の前に現れて、彼らの前で天に昇られた。イエス様は今も生きておられ私達の内に働いておられる。
イエス様を十字架につけ、一度は死なせる事に成功した祭司長・長老達は、兵士達の報告を聞くと、集まって協議し、兵士達に沢山の金を掴ませ『弟子達が夜中にきて、寝ている間に彼を盗んだ』と言わせた。
それが今日もユダヤ人の間に広まっているが、もし、イエス様がよみがえられなかったとしたら、どうなのか。
イエス様を見殺しにした弟子達は勇気を振り絞って出て来て、墓を守るローマ兵を気絶させ、封印を解き、重い石をころがし、イエス様の遺体を奪って、至る所で「イエス様は蘇った」と流言した、のだろうか。
また、大祭司一族や議員など、大勢の有力者を前に、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によって、彼は癒された」と、誰もが驚く大胆さと知恵で、イエス様があたかも生きているかのように主張した、というのだろうか。(使徒4章)
そんな事は、決して有り得ない。そもそも、主を一度見殺しにして見捨ててしまったような弟子達が、もう死んでしまった主を「よみがえった」と言って命がけで吹聴するメリットなど、一体どこにあるというのか。
あらゆるキリストの敵対者・反対者には残念な事だが、キリストは実際に復活し、多くの人に現れて、その莫大な復活のいのちの力を体験した人や、罪深い人生から全く変わってしまった人は、大勢いる。
キリスト教は当初、ユダヤ教ナザレ派という、元漁師や取税人、遊女といった社会的弱者から構成される、お金も知恵もまとまりもない、弱小集団だったのに、ヘロデ王や皇帝ネロなど、世界に冠たるローマ帝国の迫害をものともせず、むしろ飲み込んでしまい、後には、帝国そのものをキリスト教国へとしてしまった。
復活祭は、キリスト教会では最も重要な祭りだ。『わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。』(1コリント15:3-6)
今までの人類で、心肺・脳波停止などの「死」から蘇生した人は、沢山いるだろう。しかしイエス様の死と復活は、そのような”蘇生”とは、根本的に違う。人はたとえ蘇生したとしても、必ずまた死ぬ。罪の故である。
しかし、イエス様が一度死なれたのは「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のため」、つまり、全て死の根源なる”罪”を処罰するための「死」であり、最後の敵である死も、滅ぼされる(同26節)ためである。
罪なき神の御子が、人の罪の結実たる「死」に、束縛されたままである事など、有り得ない。(使徒2:24)
死が有り得ないイエス様が、人間の死にわざわざ付き合って下さったのは、人として罪を負い、その罪を処罰するためだ。そのために彼は神の座をわざわざ降り、人となって、十字架につけられ、死に、そして復活された。それによって死に勝利され、罪に勝利され、私達を縛っている諸々の呪いから勝利されたのだ。
キリストの救いの方法は、死と復活だ。古い自分は一度、全く死んで、復活し、全く新しいいのちで生きるという「いのちの取り換え」だ。『わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。・・・ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。』(ガラ6:14)
キリストの復活にあって、彼のために新しいいのちを生き、永遠の働きをして行く皆さんでありますように!