メッセージ - サルデス教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:1-6)
サルデス教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:1-6)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-4-20 23:20
サルデス教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:1-6)
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メッセージ音声
七つの教会の内の第五番目、サルデス教会への書き送りは、次の構造となっている。
1,一次受信者の指定
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:1)
2,語られるキリストの姿
『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。』(3:1)
3,賞賛と激励
『しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。』(3:4)
4,叱責と警告
『わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。』(3:1)
5,勧めの宣言
『3:2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
3:3 だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。』(2:25)
6,勝利者に約束されている報い
『彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。』(3:4-5)
7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:6)
今までの教会たちと違い、主はサルデス教会に対して、賞賛の前に叱責を与えておられる。
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目をさましていて、死にかけている(ready to die)残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。』(黙示録3:1-2)
主はサルデスに対し、あなたは、生きているとは「名ばかり(オノマー:名、名声、評判)」で、実は死んでいる、と評価された。
ヤコブは、行いのない信仰は死んだものである、と言ったが、それとは別に、主の御前に「死んだ行い」というものもある。それはすなわち、信仰に由来しない行いである。
『義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。』(ローマ9:30-32)
『だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。』(黙示録3:3)
人は考察する。主はいつ来られるのだろう、と。
実際、主が再臨されるタイミングについては色々な説が提唱され、そのうち、どの説に自分が属するか、という事によって、世界の教会は分断され互いに論争している。
しかし、その現状こそ、死んだ行いであると知るべきである。
なぜなら主は、『その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。』と言っておられるのだから(マタイ24:36-37)。
誰も知らない、御使たちもまた子も知らない、ただ父だけが知っておられる、と主がわざわざ言われた「その日その時」を知ろうとするなぞ、傲慢である。
知る良しもない事は、知らないままにして置き、私達はむしろ、主がいつ来られても大丈夫なように、目をさまして備えておくべきだ。
主は言われた。
『主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。』(マタイ24:45-51)
主はいつ来られるかわからないが、盗人のように来る、という事は、確かである。その日その時を、人は知らない。
だから私達は、主人であるイエス様がいつ来られても良いように、無毛な議論に酔ったり、それでしもべ仲間を打ち叩いたりする事は止め、霊においてしっかりと目を覚まして、任されている聖徒達に、時に応じた御言葉の食物を食べさせるべきなのだ。
主は黙示録16章でも言われている。
『見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。』(黙示録16:15)
主がこの事を言われたのは、最後の災いである第七の鉢をぶちまける直前、かえるのような三つの汚れた霊、すなわち、しるしを行う悪霊どもが、全世界の王たちを惑わして、ハルマゲドンに召集する事を示している所に、挿入的に語られている。
終わりの時、私達は、しるしを行う悪霊に惑わされたり、酔わされたりする事なく、目を覚まし続け、「神の七つの霊と七つの星とを持つ」主から目を離さず、御言葉に目を留め続けるべきなのだ。
『しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。』(黙示録3:4-5)
サルデスに対する賞賛は、メッセージの後半に少しだけ挿入されている。
それは「その衣を汚さない人が、数人(オリゴス:少し)」しかいなかったからだろうか。
黙示録において主から与えられる「白い衣」とは、殉教者に与えられる慰めの衣であり(6:11)、大きな患難を通って来た全世界の人達が、小羊の血で洗ったものである。(7:14)
そして、小羊キリストの婚姻のために、自らを整えた花嫁に対して、主は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許されている。
「この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」(19:8)
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:6)
私達は、この時代において、聖霊が語られることに耳を傾け、心に留め、そして行うべきである。
結局、正しい行い(それも、信仰に基づいた御言葉に適った行い)をし続ける者にこそ、勝利者に与えられるべき「白い衣」が与えられるのだ。