メッセージ - 聖霊に満たされるための心備え(使徒1:3-8)
聖霊に満たされるための心備え(使徒1:3-8)
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週報/メッセージ(説教)概要
使徒行伝は、現代を生きる私達と同じキリスト者達、主の働き人達が行った「言行録」である。
弟子達は、福音書で見られたような弱く俗的で、すぐに間違いを犯すような有様とは真逆の、強く大胆で、きよく聖なる有様が記されている。そのようになった分岐点は、彼らが聖霊に満たされた時であった。
聖霊に満たされたキリスト者は、もはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる。
ペテロは以前は自分で自分を縛り、自分の好む所を歩き回っていたが、主が復活し、聖霊に満たされて以降、もはやそのように歩むのを止め、自ら聖霊の導かれるままに歩み、主のために生き、主のために死ぬようになった。生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。生きるにしても死ぬにしても、主のもの。それが、主の働き人の本来の生き方である。(ローマ14:8) 主は、働き人に約束しておられる。
「聖霊があなたがたにくだる(エペルコマイ:圧倒的に臨む、迫り来る)時、あなたがたは力を受けて・・・さらに地のはて(エスカトス:最後の、末端の)まで、わたしの「ために(原意)」証人となるであろう」(使徒1:8)
キリスト者は、二通りある。以前のペテロのように自分のために生き、自分の好む所へ行こうとする人、また、主のために生き、主の御霊に導かれるままを生き、主の栄光のために死ぬ人と。前者の人生は、自由のように見えていて実はそうではなく、失敗が多く、最後まで主に従い尽くせず、惨めさと恥ずかしさに行き着く。がしかし後者の人生は、力強く、充実し、主の栄光に満ち満ちている。だから私達キリスト者は、もはや、自分に生きる事は止め、主のために生きるために聖霊を求めるべきなのだ。弟子達は聖霊を受ける前、どのように整えられて行っただろう。私達も聖霊が臨むまで、どう整えるべきか、使徒行伝から学びたい。
『イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。』(使徒1:3)
イエス様が復活されて後、天に昇られる日までの四十日間、すなわち、もはや弟子達と面と面を向かって交わる事ができなくなるときまでの尊い四十日、主が弟子達に現れた都度示された事は、「ご自身が確かに生きておられる事」と、「神の国(バシレイア トゥー セウー:神の(王としての)統治」についてであった。
これら2つの事は、私達キリスト者にとって、重要な備えである。もし主の働き、主のミニストリーにおいてこれら2つ、「イエス様が生きておられる事」、「神の統治」が無いとするなら、全く無意味だ。
私達は、きょうと言われているこの日、今まさに現実この瞬間に、イエス様が生きて、働いておられる事を、常に信じ意識しているだろうか? また、主の支配が、地のエスカトス、すなわち、私達の生活や仕事、ミニストリーの末端・極みに至るまで、行き届いている事を、切に求めているだろうか。
主の支配ではなく、その逆に、自分の支配が隅々まで行き届く事を、求めたりしていないだろうか。
聖霊に満たされる事を求めるなら、まず、ここを整える必要がある。
「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」
主は次に、命じられる。エルサレムという都、主の宮があり、主の民が礼拝に集うべき所から離れず、父なる神の約束を「待っている(ペリメノーの現能:期待して待つ)」事を。すなわち、主の礼拝、主の交わりから離れず、積極的な心で、すなわちボーッとではなく、期待する心持ちで、主の約束の成就を待ち望む事だ。
バプテスマは「浸し込む」事の意味である。死と復活を経たキリスト者は、いつまでも以前の自分を死に明け渡し続けるという段階にとどまらず、積極的に聖霊に浸しこまれる事を求めるべきだ。
「主よ、イスラエルのために国を復興(復元する、元通りする)なさるのは、この時なのですか」 弟子達は、四十日、神の支配に拠って歩むべき事を学び続けたはずなのに、相変わらず世の国の、以前の栄光の復元を期待した。あいにくイスラエルは、以前の栄光が帰るのではない。イスラエルはもはや一民族のものではなく、全世界がイエス様にあって一つとされ、神の民、霊的イスラエルとされる事が主のご計画である。
「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」と主が言われたように、私達は、これから主が何をなさるかを「理解」しようとするより、私達の思いを遥かに超えた主の圧倒的なわざに期待するべきだ。聖霊を待ち望むこの時期、私達は自分の自由にしたいという思いを御前に置き、ただ主の御言葉が成る事を積極的に期待しつつ、主の御国と御心を求めたい。