メッセージ - フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:7-13)
フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:7-13)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-5-9 21:49
フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:7-13)
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メッセージ音声
七つの教会の内の第六番目、フィラデルフィア教会への書き送りは、次の構造となっている。
1,一次受信者の指定
『ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:7)
2,語られるキリストの姿
『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。』(3:7)
3,賞賛と激励
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(3:8-10)
4,叱責と警告
なし
5,勧めの宣言
『わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。』(3:11)
6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(3:12)
7,二次受信者への命令13
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:13)
フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対しては、スミルナ教会と同様、主からの叱責が無い。
そして今回の箇所には、キリスト者であるなら必読とも言える事が、すなわち、全世界に来るべき試練の時でも主から守られるための秘訣が、書いてある。
主はご自身を「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者」(7節)と紹介された。
実に主は、死とハデスの鍵を持っておられ(1:18)、また「ダビデの鍵」をもっておられる。
かつてヒゼキヤ王の時代、主は、主人に恥をもたらす宮廷執事シェブナを権威の座から降ろし、その代わりに、宮内長官エルヤキムをその座に据え、彼の肩に「ダビデの鍵」を与える、と言われた。(イザヤ22:22)
しかし、ダビデの子孫の「人間」の統治は不完全であり、やがては引き抜かれてしまう事も、主はその時預言しておられた。(同25節)
事実、バビロン捕囚以降、ソロモン以降に続く血筋は、イスラエルの王権から絶たれてしまった。(エレミヤ22:30)
ソロモン以降、歴代の王たちは、主を怒らせ続けて来たからだ。
イエス様は、”処女”マリヤから生まれた故に、ソロモン以降の血を継ぐマリヤの夫・ヨセフの血は、受け継いでいない。(マタイ1章)
しかし、イエス様を産んだ処女マリヤは、ダビデの血を受け継いでおり、なおかつ、ソロモン以降の血は、受け継いでいない。(ルカ3章)
彼女は歴代の王族の血筋ではなくとも、ヨセフに嫁いだ事によって、法的には王族へと迎え入れられた形になる。
つまり、イエス様は法的に王族であり、かつ、歴代の王族のいわば”汚れた”血筋ではない、いわば、完全で純血なる王族ダビデの子孫なのである。
彼が開くなら、それは誰にも閉じる事は出来ず、また、彼が閉じるなら、それは誰にも決して開ける事が出来ないのだ。
主はその約束を、フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対して為された。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。』(黙示録3:8)
彼らには、少ししか力がない、という。
つまり、主からの賞賛と保護を受けるには、力の大小は関係無い、という事であり、むしろ、「主の言葉を守り」「主の御名を否まない」事こそ大事である。
門を開いて下さるのも、閉ざして下さるのも、主であり、自分の力で開けたり閉めたりするものではない。
ただ、主の言葉を守り、主の御名を否まない聖徒達に、主が彼らの歩むべき道を、くぐるべき門を、開いたり、閉ざしたりして、導いて下さるのだ。
『見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。』(黙示録3:9)
自称ユダヤ人、すなわち、自分達は神に属する、神に選ばれた者達だ、と言いつつも、実はサタンの会堂に属しているような「偽兄弟」「偽クリスチャン」は、どの時代にもいる。
力が無い人であるなら、そのような者達に、自力で対抗したり、論破したりは、できないかもしれない。
しかし主ご自身が、弱い彼らを弁護し、主ご自身がそのサタンの会衆の者達を、彼らの前にひれ伏させ、その者達に「わたしが愛しているのは彼らだ」と知らしめて下さるというのだ。
『忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に「住む(カトイケオー)」者たちをためすために、全「世界(オイコウメネー)」に臨もうとしている「試錬(パイラスモス)」の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:10)
ここの「住む(カトイケオー)」とは、一時的に住む事の意味ではなく、「永住する、定住する」の意味であり、また、「世界」(オイコウメネー)は、特に人が居住している地、つまり、人の支配(特にローマの)が及ぶ所の意味である。
つまり、行政が高度に発達し、人による支配が行き届いた都市などを目指して、永住・定住しようとしている人は、要注意である。
そこには、「試錬(パイラスモス:試験のための誘惑)」が臨もうとしているからだ。
人の栄えを目指して、人の上に成り上がろうとする者は、所詮、バベルの塔を構築する一員となっている過ぎず、最終的には、築きあげて来たものは皆、崩されてしまう事になる。
信仰の父・アブラハムが、この地上では、自分の墓地以外は何も土地を得ず、ずっと天幕生活を貫いたように、私達もこの地上では旅人、寄留者として歩み、天の故郷を目指して歩む者である。
『信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。・・・
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。』(ヘブル11:8-16)
そのような聖徒達には、主からの密かな養いと喜びがある。
イエス様がお生まれになった時、羊飼い達は、皇帝アウグストの住民登録を受ける価値も無い、いわば、オイコウメネーの外の人達だったが、彼らには、救い主キリストがお生まれになった事を天の軍勢の賛美と共に告げ知らされ、その現場を見に行けるという、密かな、そしてとてつもない幸いを得る事ができた。
終わりの時代、誰も耐えられないような試練の時代でも、主から守られる秘訣がある事は、私達キリスト者には大きな慰めである。
その秘訣とは、「わたし(イエス様)の言葉を守り、わたし(イエス様)の名を否まな」い事である(8節)。そして、力は少しばかりしか無くても良いのだ。
『わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における「柱(ストゥーロス)」にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:11-12)
柱(ストゥーロス)には、「最重要人物」の意味もある。
神の聖所において、重要人物として立てられる事も名誉であるが、何よりも、主の聖所の主の臨在の中で、永遠に主の御そば近くで生きられる事は、どれ程の幸いであろう。
勝利を得る者達の上に、主は「名を書き記そう」と約束しておられる。
その名とは、「神の名」と、「神の都すなわち天から下ってくる新しいエルサレムの名」と、「主の新しい名」である。(12節)
自分の持ち物に、自分の名前を書く事によって「これは自分のもの」と周り宣言するように、主は私達の上に、ご自身の名を書きつけて、私達は「主に属するもの」「主のものだ」と明記して下さる。
21章には、天から下ってくる新しいエルサレム、すなわち、小羊キリストの妻である花嫁の記述があるが、勝利者には、その「新しいエルサレム(小羊キリストの妻)」の名も、記されるというのだ。
勝利を得る者は、なんと幸いな事だろうか!
「勝利者」とは、この地上で最後までイエス様のわざを”継続的に”守り続ける人である。(黙示録2:26)
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録3:13)
これらの事は、現代を生きる私達に対しても語っている。
私達も、勝利者として、これらの素晴らしい特権にあずかれる者でありたい。