メッセージ - ラオデキヤ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:14-22)
ラオデキヤ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:14-22)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-5-11 23:00
ラオデキヤ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:14-22)
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七つの教会の内の第七番目、ラオデキヤ教会への書き送りは、次の構造となっている。
1,一次受信者の指定
『ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:14)
2,語られるキリストの姿
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。』(3:14)
3,賞賛と激励
なし
4,叱責と警告
『あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。』(3:17)
5,勧めの宣言
『このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。』(3:16-18)
6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。』(3:21)
7,二次受信者への命令22
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:22)
主は、ヨハネに7つの教会のメッセンジャー達に対して手紙を送りなさい、と命じられたが、その最後・7つ目の教会が、ラオデキヤ教会である。
この教会には、主からの賞賛は一切無く、ただ、叱責しか無い。
それは7教会中、このラオデキヤだけである。
ラオデキヤは当時、金融都市で、医療を学ぶ所もあり、フルギヤの目薬工場を直営する富裕な地域だった。
また、ラオデキヤから8キロ離れたヒエラポリスという都市には、パムッカレ(トルコ語で「綿の宮殿」の意味)という有名な温泉があり、各地から多くの人が治療目的で訪れて、温泉を楽しむ所だった。
ここの教会に対し、主はご自身を「アァメンたる者、忠実な、まことの証人」と紹介される。
アーメンも、忠実も、まこと(真実)も、いずれも同じ意味である。
ヘブル語のアマン(アーメン)には、忠実、真実の意味があり、「アーメン」は全てのクリスチャンの信仰告白の言葉となった。
イエス様はまことに、全ての聖徒達が「アーメン」と信仰告白する対象であられるお方、忠実また真実なるお方、神に造られた全ての根源なるお方である。
『わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。』(黙示録3:15-16)
物質的に恵まれ、自分の事を「富んだ者」と言ってはいるが、主は「なまぬるい」と評価された。
そして主は言われる。なまぬるいよりは、むしろ、冷たいか熱いかであってほしい、と。
なお、ヒエラポリスからラオデキヤへと流れてくる温泉水は、ラオデキヤに到達する頃にはなまぬるくなっており、この水で体を洗うと、皮膚病になった、と言われている。
熱いでもなく、冷たいでもない。それは逆に、体をむしばんでしまうのだ。
熱い事、熱心な事は、結構である。
冷たい事も、「なまぬるい」よりはまだましだ。
「愛」の反対言葉は「憎しみ」ではなく、「無関心」だと言われている。
親子関係や男女関係において、憎しみがある内は、まだ良い。それは、相手に対して関心がある、という事の裏返しだからだ。
しかしもし、相手に対して何の感情も関心も抱かないとするなら、その親子関係・男女関係は、致命的な段階に来ている。
ましてや主との関係なら、なおさらだ。
信仰者にとって致命的なのは、主に対する無感覚、無関心、距離を置いた「事なかれ」的ななまぬさであり、そのような人は、主から遠く離れた者である。
日本には現在、キリスト教への迫害は無く、あらゆる宗教に対して寛容で、経済的にもある程度富んだ国である。
一見すると、迫害下にある国々よりはましに見えるが、霊的に見るなら致命的だ。
事実、過去多くの宣教師たちがこの国に派遣されているにも関わらず、日本のクリスチャン人口は、今だに1%にも満たない。
この、真理に対する熱さも冷たさもない「なまぬるさ」が、重要な原因の一つであろう。
『あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。』(黙示録3:17)
彼らは確かに物質的には富んでいたかもしれない。
それで「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない」と自分で自分を評価しているが、主は逆に、彼らに5つのマイナスな事柄を、すなわち、「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」と指摘している。
そして、それを脱却するために、3つのものを「買いなさい」と指示されている。
『そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。』(黙示録3:18)
この「買う(アゴラゾー)」は、買い戻す事の意味もあり、十字架上で主が血の値をもって私達を「買い戻し」て下さった単語であり(1コリント7:23,30)、買い戻されて赦された私達・信仰者には重要かつ基本的な事をあらわす単語でもある。
ここでは「買い戻し」を3度並行させているが、この、同意的な言葉を並行的に繰り返す事によって強調するのは、ヘブル的キアズム構造の強調表現である。
主は、強調される。
なまぬるさからの脱却は「値をもって、買い戻す」事によるものだ、と。
まず買い戻すべきは、「火で精錬された金」であるが、火で精錬された金について、1ペテロに書いてある。
『そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。』(1ペテロ1:6)
ここでは、様々な試練によってためされた信仰が、「火で精錬された金」と平行して書かれているが、まず買い戻すべきは「信仰」、それも、試練によって試され純化された信仰である。
また、次に買い戻すべきは、「裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣」だ。
この白い衣については、長老の一人がヨハネに説明している。
「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」(黙示録7:14)
また、主は言われた。
「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。」(黙示録16:15)
主はいつ来られるか、分からない。
しかし主のしもべが、罪を犯しても、主の贖いの血潮で洗わないままに、あい変わらず罪の飲み食いのどんちゃん騒ぎをし続けているなら、その者は裸の恥をさらしたままである
主のしもべは、罪のけがれがついたなら、その日が暮れない内に小羊の血潮で洗い、きよい状態を保ち続けるべきなのだ。
3つめの買い戻すべきものは、「見えるようになるため、目にぬる目薬」である。
イエス様ご自身が目薬を塗って下さった記事が、ヨハネ9章に記されている。
『イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。』(ヨハネ9:6-7)
「顔にドロを塗る」「顔につばきをかける」、いずれも屈辱を受ける事の表現だが、「見える」ためには敢えてそのような経験を「買い求める」事も、必要だろう。
主から直接、目にドロを塗られる時、その人が「遣わされた者」の所に行って、洗うなら、目からウロコが落ち、それまで見えなかったものが見えるようになり、働き人として整えられるのだ。(使徒9:18)
『すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。』(黙示録3:19)
主は、愛すれば愛するほどに、しかったり、懲らしめたりする。(申命記8:5、ヘブル12:5-11)
主は、ラオデキヤの人を愛しておられるからこそ、このような厳しい事を言われる。
だからメッセンジャーは、このラオデキヤの箇所を、憎い人を裁断するための道具として用いてはならない。
むしろ過ちに陥っている人には、その人が倒れてしまわないように、愛をもって戒め、諭し、立ち返らせるべきだ。
『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし(デイプネオー:夕食あるいは宴会をする)、彼もまたわたしと食を共にするであろう。』(黙示録3:20)
なんとラオデキヤでは、イエス様は、扉の外におられる。
「ラオデキヤ」は「ラオス+ディケー:民衆の義、民衆の判決」の意味があるが、人が裁き、人が自分の義を主張するなら、イエス様は戸の外に追いやられてしまっている。
イエス様は、彼らの中に入ろうとして、戸を叩く。
もしイエス様が叩くのを聞いて、扉を開き、彼を受け入れるなら、イエス様は入ってきて、共に食事(デイプネオー:夕食あるいは宴会)ができる。
しかしもし、民衆の議論や義の中で喧々諤々したまま、イエス様の叩く音を無視するなら、イエス様は去って行ってしまう。(雅歌5:6)
『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。』(黙示録3:21)
主は「わたしと共にわたしの座につかせよう。」と言われた。
だから、イエス様抜きにして、勝利を得てもいないのに、自分が勝手に王の座・裁きの座に着こうとするのは不当であり、そこから引きずり降ろされてしまう。
主が座に招いてくださり、そしてそこに主が着かせて下さる。それを待つべきなのだ。
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(黙示録3:22)
主は、これらの事を、私達にも語っておられる。
もし私達の中に、ラオデキヤに対して主が叱責されたような事があるなら悔い改め、買い戻すべきものを、主から買うべきである。