メッセージ - 暴力的な混沌の中で(使徒7:54-60)
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人々は確かにステファノの話に心刺されたのだが、刺された心の持って行き場は「悔い改め」ではなく「憎悪と殺意」であった。
この殺意に満ちた権威ある訴訟人達は、口々に叫びながら彼に殺到し、彼は多くの腕に掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投げつけられた。
そのように暴力的な混沌の中で、ステファノはどうだったか。
「ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」(使徒7:59,60)
彼がこんなにも平安に満たされつつ眠りについたのは、なぜか。
天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見つめていたからである。(55節)
世の中の人々が、あるいは呪いに満ちた被造物が、殺意に燃えて私達を取り囲む事があるかもしれない。
そういう状況でもステファノのように平安を保つには、天を見つめ、イエスを見つめる事である。
「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)
子供の頃この箇所を読んだ時、こんな、自意識がどこかに行ってしまっているような、あぶない人間にはなりたくないと思った事もあった。
しかし、大人になるうちに、人生の色々な経験をし、自意識がどこかに行ってしまっている、あぶない、などと評価する事で自分を保とうとする事が出来なくなる時が来て、結局、はるかに弱くてあぶない自分に気付いて、打ちのめされた。
私達は生きていく上で、人々の憎悪の的にされ、のけ者にされ、迫害に遭い、戦いに直面する時が来る。
ステファノが石に打たれている場面のように、もはや自分の力ではどうしようもない状況となった時でも、揺るがされない平安を与えてくださるのが、イエス様である。
最近、イエス様を主とするようになってから、ステファノ程ではないにしても、困難な場に置かれてもその平安が支配するようになってきた。
事実、地震の中でも、テレビを通して入ってくる恐ろしい情報を聞くにつけても、その主から来る平安は乱されていない。
あくまで自分を主に明け渡したくないと思うならそれでも良いが、そういう人達は、この日本の危機的状況に太刀打ち出来ていないのではないか。
私達の主イエス様を見つめているなら、人生のあらゆる困難に対して、平安の内に対処することが出来る。
さて、ここにサウロという人物が出てくるが、彼こそ後のパウロであり、新約聖書の大部分を書いた本人である。
彼はパリサイ人として高度の教育を受け、律法に関してはそこいらの人達以上に熱心に守っていたが、律法の言っていることが正しいと認識していながらも、守りきれない自分にみじめさを感じていた。
そんな彼がステファノの処刑に立ち会った時、衝撃を受けたのではなかろうか。
こんな殺意を持った群集に囲まれ石打に遭っているのに、なお御使いのような満ち足りた表情をして、石打をしている人達のために祈ったのだ。
それも見たところ、人間的ながんばりや、無理やりではなく、心の奥底から溢れる熱情に突き動かされて、である。
サウロは相当悔しかったのではなかろうか。
律法を守り、一生懸命神に仕えて来たはずなのに、彼自身が望んでも得ることの出来なかった聖なる性質、義なる性質を、この新興の異端集団が、ごく自然に体現している。
サウロはその後、教会を迫害する者になるが、さらにその後、彼自身が主イエスと出会い、迫害者サウロから伝道者パウロへと造り変えられた。
そして最後に、彼もステファノのように殉教するが、彼も終わりまで平安満たされていたようである。
主イエス様を見つめる者は、ステファノもパウロも、そして皆さんも、同じように平安に満たされるのである。
彼らのように、とまでは行かずとも、日々のあらゆる小さな困難や迫害において平安が保たれる。
日々、主の平安によって満たされ、終わりまで満たされたまま生を全うできる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祈ります。