メッセージ - 恵みと憐れみが追って来る(使徒8:1-8)
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韓国語通訳有 한국어예배
サウロはステファノ殺害の日以降、教会への迫害を強めた。
彼はなぜその時以降、しつこく迫害するようになったのか。
恐らくこのステファノの最後の様を見て、よほど激しく燃え立たされるものがあったのであろう。
彼は元々神様を思う熱心さから、キリスト者達を、神に敵対する「ナザレ人の一派」なる新興の集団として迫害した。
しかし、ステファノの最後の有様は、サウロの思いを超えて、聖かつ真実な趣を醸していた。
宗教をしている人は、敬虔な宗教者らしく、愛ある人らしく、御使いのように清らかな振りをする。
そういう振りをしている人を見る時、違和感を感じるものだが、ステファノはそういう振りをしている様子は一切無く、心底、輝いていたのである。
サウロは恐らく、そんなハズは無い、絶対どこかでボロを出すはずだと思ったであろう。
そこでイエスの名の下に集まっている家々に強襲して踏み込み、そこにいた男も女も牢にぶち込んで行った。
ところが彼が暴いていく家々、ぶち込んで行く人達は、あまりにも善良だった。
彼らは日々共に集まり、パンを裂き、賛美し祈り、神殿に礼拝しに行き、多くの徴や奇跡を行い、人々から尊敬されていたのである。(使徒2:43-47)
サウロがが一人また一人と獄にぶち込んでいく度に、恐らく心が痛かったのではなかろうか。
サウロは後に、主がこのように言われたと人々に証している。
『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』
サウロは聖徒達を牢に入れる度に、とげのついた棒を蹴るような痛みを覚え、そして主はサウロ自身が痛みを感じている事もご存知だった。
イエスを主とする者たちを叩くのは痛い事である。
愛を持って兄弟姉妹を戒め、間違いから立ち直らせるのなら望ましいが、不特定多数のクリスチャンや牧師達をただ批判し貶めるだけなら、主がサウロに介入されたように、その人にも介入なさる。
サウロ他迫害者達のために教会の人々は散らされ、財産を取り上げられ、着の身着のまま追い出されてしまった。
それまでの日常生活が、ある日突然奪われてしまったわけである。
震災で着の身着のまま出て行かなくてはならなかった人達を私達は見ているため、それがどれほど困難な状況であるか、想像に難くない。
ところが聖書には、その大変さについては全く書かれておらず、むしろ、かえって良かったかのような書かれ方をしている。
4節には、行く先々で福音を言い広めたと書かれてある。
この福音のために、彼らは狙われ牢に入れられたり追い出されたりしたのではなかったか。
しかし主の霊に捕られた人間は、福音を伝えずにはいられない衝動に動かされるのだ。
彼らは確かに大変だったが、その大変さ以上に、恵みと憐れみ、慰めが付いて回り、物質的な必要の満たしも与えられたのである。
福島の教会の方々には行方不明の聖徒がいたり、ちりちりになってしまったりという困難にある状況を祈祷課題として書いたが、
その先々での生活は物質的に満たされ、逆に回りに与えているほど満たされているという事をインターネットの掲示板にて記している。
また、行く先々で主にある兄弟姉妹からのおもてなしや志しを頂き、励ましたり励まされたりして、涙が尽きない日々だという。
このように、主イエスにある者たちは、決して行き詰まる事が無く、慰めに満ち、恵みと憐れみが追って来るのである。(詩篇23)
私達も日々この福音をのべ伝えた者達のように、主の霊に満たされて、困っている兄弟姉妹のために祈り執り成して行きたい。
この終わりの時代において、いかなるときでも福音を伝える皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!