メッセージ - 黙示録の7つの災い - 封印、ラッパ、鉢 - の読み解き方(黙示録6章)
黙示録の7つの災い - 封印、ラッパ、鉢 - の読み解き方(黙示録6章)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-6-29 21:30
黙示録の7つの災い - 封印、ラッパ、鉢 - の読み解き方(黙示録6章)
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黙示録は6章以降、16章に至るまで、「災い」と見られる記事が続く。
いわゆる「7つの封印の災い」、「7つのラッパによる災い」、「7つの鉢による災い」と呼ばれるものである。
啓示録が「怖い」と思われている原因の1つにもなっているが、これらは「災い」とみなすべきではない。正しくは「審判」である。
「審判」は、ある人には災いかもしれないが、ある人には救いだ。
モーセの時代、ユダヤ人を奴隷として搾取し苦しめていたエジプト人にとって、神の「審判」は「災い」であったが、神の民であるユダヤ人にとっては、むしろ「救い」であった。
それと同じ事が、世の終わりでも起きる。
『小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。』(黙示録6:1)
全能の父なる神から全権威を授与された小羊キリストが、いよいよ、神の元で封じられていた巻物の封印をはがして行く。
そして、太古より立てられていた神の計画の全貌が、次々と明らかにされて行く。
その中には、悪魔サタンとそれに属する者共への究極的な裁きが含まれている。
そのため、悪魔サタンは、この黙示録を最も嫌い、教会から、またキリスト者達から、この書を遠ざけさせて来た。
人を搾取し、苦しめて来た悪魔サタンとそれに属する者達には主の審判は「災い」であるが、イエス・キリストを救い主としてあおいで神の民とされた人達には「救い」である。
これら「封印」、「ラッパ」、「鉢」による7つの災い(審判)は、一体何を意味するのか。
また、どうすれば、このいわゆる「災い」をまぬがれる事ができるのか。
それらを巡って、古くから、多くの人々によって色々な解釈が為されて来た。
また、異端達はこれを利用して「自分達だけがその真意を知っている」「この”災い”から逃れるには自分達の所に来るべきだ」と、多くの人々を惑わし、取り込んで来た。
一体これらの事柄は、どのように読み解いていくべきなのだろう。
ご存知の通り、「黙示録」を書いたのは、使徒ヨハネである。
そしてヨハネはユダヤ人であり、ヘブル的思考に従って、これを書いている。
だから、黙示録を読み解くには、ヘブル思考から外れては内容が理解できない。
ユダヤ人達は、物事を表現したり弁証したりする時、キアズムと呼ばれる論理構造に従って説明する「くせ」があり、聖書は旧約も新約も「キアズム」の独特の「反復表現」や「平行表現」で満ちている。
例えば、
「わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ」(イザヤ41:8)
と言う呼びかけは、「イスラエル」も、「ヤコブ」も、「アブラハムの子孫」も、全部、同じくイスラエルの民を表しているのだが、3点方向から確実に伝えようとしているわけであり、また、イエス様の有名な命令、
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 』(マタイ7:7-8)
も、3点の異なる命令形動詞がまず与えられ、それら命令に従順する者に与えられる報償が、「求める→得る」「探す→見出す」「叩く→あけてもらえる」と、7節と8節の間で平行的に示されている。
日本語を用いる私達が、聖書を読む時、このような反復表現や平行表現は、少々「くどい」「難解だ」と実感する事があるだろうが、これは、より正しく論理的に物事を伝えるためのものである。
「キアズム構造」を読み解く上で真っ先に注目すべきは、「動詞」である。
黙示録6章から16章までを、「封印」「ラッパ」「鉢」の3点から成るキアズムとして見る場合、それぞれで7度、繰り返して用いられる動詞がある。
それはそれぞれ、「(封印を)はがす」、「(ラッパを)吹く」、「(鉢を)ぶちまける」である。
これら、3つの「動詞」に着目するなら、言いたい事が何であるのかが見えてくる。
最初の動詞、封印「はがす(アノイゴー)」は、それまで覆われていたものをはがし、隠れていたものが公衆の目にさらされた、という事である。
映画でいうなら、ある監督が秘密裏に制作していた映画の予告サイトが、ある時点にテレビやネット上に現れたようなものだ。
予告編は全容はなんとなく分かるけれど、詳細は知らされないので、その実体は映画が封切られてみなくては分からない。
次の動詞は、「吹く(サルピゾー)」である。
ラッパを吹く事は、ユダヤ人にとって、「これから何事か起きるぞ」「何々をしなさい」というサインとして古くから用いられて来た。(民数記10章)
映画でいうなら、映画のサイトやテレビなどで「本日いよいよ公開!」と表示されるようなものである。
最後の動詞、鉢を「ぶちまける(エッケオー)」は、液体や金銀を「注ぎ出す、流し出す、外へ流す」意味であり、前の二つの動詞に比べればより実体的な行動を伴った動詞である。
つまり、「アノイゴー」→「サルピゾー」→「エッケオー」は、映画の全容が予告編で知らされ、いよいよ「本日公開」のサインがあり、いよいよ各映画館でフィルムが動き出し、映像が流れ出した、というようなものである。
封印を「はがす(アノイゴー)」事は、終わりに起こるべき事を公開する事であり、隠れた物事をオープンして行ったのが、8章1節までの記事である。
次に、ラッパを「吹く(サルピゾー)」事は、今まで予告されて来た物事がいよいよ封切られるというサインが示された事を意味し、いよいよ「終わりの始まり」が始まった事の警告が10章7節までの記事である。
そして鉢が「ぶちまけられる」事は、ついに、審判の実体が次々と遂行されて行く事を意味する。
6章の、封印をはがされた時点では、審判の「実体」は起きておらず、「これからこんな事が起こるぞ」という「予告篇」である。
その証拠として、第五の封印が解かれた時(6:9-11)、これから殉教するべき人がまだ残されている事が「予告」されているだけで、何らかの災害は、何も起きてはいない。
また、第六の封印が解かれた時(6:12-17)、天は巻物が巻かれるように消えてしまった事が記されているが、もしこの事が実体として起きてしまったなら、もはや全ての事がジ・エンドとなり、そのまま21章の新天新地へと内容が飛んで行かなくてはならないはずなのに、まだ7章以降へと地上の物事が続いて行く。
これらの事が、封印を「はがす」事はまだ審判の実体ではなく「予告編」である事の証拠である。
このような視点をもって、6章以降の事柄をこれから見て行きたい。