メッセージ - アサ - 祝福されたゆえに驕り高ぶってしまった後半人生(1列王記15:16-24)
アサ - 祝福されたゆえに驕り高ぶってしまった後半人生(1列王記15:16-24)
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- 執筆 :
- pastor 2016-7-21 23:50
アサ - 祝福されたゆえに驕り高ぶってしまった後半人生(1列王記15:16-24)
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『アサとイスラエルの王バアシャの間には一生の間、戦争があった。イスラエルの王バアシャはユダに攻め上り、ユダの王アサの所に、だれをも出入りさせないためにラマを築いた。』(1列王記15:16-17)
アサは、主の目に適った良い王として記され、その名声は当時鳴り響いたが、勝利し、成功し、栄えた人生を暫く送った時こそ、特に気をつけなくてはならない事がある。
「傲慢」という、成功者の誰にも訪れる敵がひそかに忍び寄り、いつのまにそれに飲まれてしっているかもしれない。
この「傲慢」という敵に対処しなかった故に、せっかく成功したのに大きく落ちぶれてしまった王たち、牧師たちは、沢山いる。
アサも、その例にもれなかった。
第二歴代誌16章に、その詳細が記されている。
『アサの治世の三十六年にイスラエルの王バアシャはユダに攻め上り、ユダの王アサの所にだれをも出入りさせないためにラマを築いた。』(2歴代誌16:1)
彼の治世は41年だったので、36年目は、彼の治世が終わる5年前である。
その時に、事が起きた。
『イスラエルの王バアシャはユダに攻め上り、ユダの王アサの所に、だれをも出入りさせないためにラマを築いた。』(1列王記15:17)
ラマはベテルからエルサレム、ベツレヘムへ至る街道沿いの要所であり(士師記19:13)、そこに要塞を築かれ封鎖されるなら、南ユダにとってかなり不利な事になる。
アサはどう対処したか。
『そこでアサは主の宮の宝蔵と、王の宮殿の宝蔵に残っている金銀をことごとく取って、これを家来たちの手にわたし、そしてアサ王は彼らをダマスコに住んでいるスリヤの王、ヘジョンの子タブリモンの子であるベネハダデにつかわして言わせた、「わたしの父とあなたの父のとの間に結ばれていたように、わたしとあなたの間に同盟を結びましょう。わたしはあなたに金銀の贈り物をさしあげます。行って、あなたとイスラエルの王バアシャとの同盟を破棄し、彼をわたしの所から撤退させてください」。』(1列王記15:18-19)
アサは、かつてのように主に伺ったり寄り頼んだりする事ではなく、持てる資産や手腕を用いて解決しようとした。
それも、「主のもの」として以前聖別したはずの金銀宝蔵を、主の宮から持ちだして、それをダマスコのシリヤの王、ベン・ハダデに贈って、外交交渉をするのだ。
その交渉は成立し、バシャはシリヤと南ユダからはさみうちされる形となったので要害を築く事をやめ、アサは、その素材を流用して近くにゲバ、ミツパの要害を築いた。(1列王記15:17‐22)
しかし、彼が主に寄り頼まず、聖別された主の宮の宝物を、世的な外交手段へと流用した事について、主から警告を受ける。
『そのころ先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、「あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった。かのエチオピヤびとと、リビアびとは大軍で、その戦車と騎兵は、はなはだ多かったではないか。しかしあなたが主に寄り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡された。』(2歴代誌16:7-8)
ダビデは預言者からの警告を受けた時、素直に自分が罪を犯した事を認め、主に赦しを乞うた。その本気度は、詩篇51篇を見れば分かる。
しかしアサは、ダビデとは違った。
『するとアサはその先見者を怒って、獄屋に入れた。この事のために激しく彼を怒ったからである。アサはまたそのころ民のある者をしえたげた。』(2歴代誌16:10)
彼は自分を省みるのでなく、その先見者に対して怒りを燃やして、彼に「足かせ」を課した。
その事で、アサは、「足」に災いが降される。
『アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた。アサは先祖たちと共に眠り、その治世の四十一年に死んだ。』(2歴代誌16:12-13)
病気になったら医者に頼るのは当然と思われるかもしれないが、この時ばかりは、そうではない。
主の言葉を届けに来た人に怒りを燃やし、「足かせ」をした結果、「足」の病が激しくなった。そうであるなら、これは主からの警告である事は明確であり、主の前に出て、自らの罪を悔い改め、赦しを乞うべきなのに、逆に頑なになって、これは普通に病気になったのだとばかりに、医者に助けを求めたのだ。
しかしそれを続けた結果、二年後に、その病が元で死んでしまう。
『主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。』(エレミヤ17:5-6)
ここには、心が主から離れている人が、いかにむなしくなってしまうかが、記されている。
医者に頼るとか、自分の腕を頼りとするとかは、問題ではない。問題は「心が主から離れている事」であり、その状態であるなら、主はその人に、ご自身を頼りとさせるために、病や災いなど、あらゆる事を起こされる。
心が主から離れてしまっていて、世的な方法に解決を求める人は、荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない、と書いてある。
その人は、幸せが戸口に近づいて来てノックしていたとしても、無視してしまう。
そのノックの音に応え、扉を開きさえすれば、幸せが入って来るというのに、心が主から離れてしまっている人は、そういう事が分からず、そうしてやがては、幸せは扉を叩くのを止めて、去って行ってしまう。
そして、後で気づくのだ。
ああ、あの時、ノックされていたのだ、主の御声に聞き従っていればよかった、と。
あの時、あの預言者の声に、あの信仰の先輩のアドバイスに、聞き従っていればよかった、と、後になって悔やんでも、既に遅かった、というケースは、聖書から幾らでも見つける事ができる。
私達は、いつも主に向かって心を開き、御声に耳を傾け、その御言葉を頼るべきだ。
『おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。』(エレミヤ17:7-8)
いつでも御声に聞き従い、幸せが扉をノックしている時は、すぐに開けて迎え、いつでも幸せな人生を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!