メッセージ - ナダブ - わずか二代で終わってしまったヤロブアムの家(1列王記15:25-32)
ナダブ - わずか二代で終わってしまったヤロブアムの家(1列王記15:25-32)
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- 執筆 :
- pastor 2016-7-25 21:02
ナダブ - わずか二代で終わってしまったヤロブアムの家(1列王記15:25-32)
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25節以降は、北イスラエル王国の話に切り替わり、北王国・最初の王朝となったヤロブアムの子、ナダブの話である。
『ユダの王アサの第二年にヤラベアムの子ナダブがイスラエルの王となって、二年イスラエルを治めた。彼は主の目の前に悪を行い、その父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪をおこなった。』(1列王記15:25-26)
ナダブの父・ヤロブアムは、北イスラエル王国を22年統治したが、彼はたった2年しか統治できなかった。
その理由は、彼が主の目の前に悪を行い、主の道にではなく彼の父の道に歩んだからである。
彼の・父ヤロブアムには、主から何度も預言者が遣わされ、主の道に帰るよう警告を受けていた。それなのに彼も、彼の子も、結局主の道に帰らなかった。
主は侮られる方ではない。
もし、主から御言葉によって警告が与えられているのにそれを無視し、敢えて好き勝手な道を選び歩むなら、遅かれ早かれ必ずペナルティが待っている。
ただ主は、悔い改めの機会を与えずにすぐに滅ぼしてしまわれるお方ではない。
悔い改めて立ち返るための「憐れみの期間」が、必ず与えられる。
その期間は、主が一方的に計り与えて下さるものであり、どのくらいであるのかは人には分からない。
ナダブの場合は、それは2年だった。
もし彼がこの期間、父の悪の道を離れ、主の道に帰っていたなら、当然、歴史は変わっていただろう。
しかし結局、彼は父ヤロブアムの道を改めず、その憐れみの期間を食いつぶしてしまい、滅びの目盛りが満ちてしまった。
『イッサカルの家のアヒヤの子バアシャは彼に対してむほんを企て、ペリシテびとに属するギベトンで彼を撃った。・・・こうしてユダの王アサの第三年にバアシャは彼を殺し、彼に代って王となった。彼は王となるとすぐヤラベアムの全家を撃ち、息のある者をひとりもヤラベアムの家に残さず、ことごとく滅ぼした。
主がそのしもべシロびとアヒヤによって言われた言葉のとおりであって、これはヤラベアムがみずから犯し、またイスラエルに犯させた罪のため、また彼がイスラエルの神、主を怒らせたその怒りによるのであった。』(1列王記15:27-30)
ナダブは、家来の謀反によって殺され、こうしてヤロブアム一族は、郎党もろとも根絶やしにされてしまった。
その事は、あらかじめ前章で預言されていた事だった。
元々、預言者アヒヤを通して主から約束されていた事は、ヤロブアムの家は、ダビデの家にような長く続く家を建てよう、という事だった。
それなのに、たった二代で、滅ぼされ尽くしてしまった。
それは彼らが、祝福を受け続けるための条件を、破り続けたからである。
祝福であれ、呪いであれ、預言には「もし**なら」という条件がつきものである。
『もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。』(1列王記11:38)
主の約束は、一貫してシンプルであり、そして最初から全く変わっていない。
それはすなわち、主の道に歩むなら、必ず祝福される。主を軽んじ主の禁じられた道を行くなら、必ず呪われる、という事である。
しかし主は、コンピュータープログラムのように条件分岐のように、杓子定規に裁かれるお方ではなく、愛、憐れみ、うめきの感情をもって、人を救いたいと願っておられる主である。
『それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。
あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。』(エゼキエル33:10-11)
主は、悪人の死を喜ばれるのではない。
悪人が打ち叩かれて苦悶の表情をしている様を見て喜ぶようなお方ではない。
むしろ悪人が立ち返って、いのちの道を歩む事をこそ、喜ばれる。
悔い改めには、遅すぎる事は無い。
十字架という極刑が確定し、それが執行されている真っ最中の凶悪犯でさえも、イエス様を受け入れたなら、パラダイスへ行く事が許されたのである。
主はいつでも、人が悔い改める事をこそ、喜ばれる。
それでは死ぬ間際に悔い改めさえすれば、あとは好き勝手に生きても、強盗さえしてもいいのか、と思うのは、お門違いである。
人は、いつ死ぬか分からないものであり、そして人は、日常的に考え信じ行なっているものがとっさに出てしまうものだから。
御言葉であられる主との交わりは、日毎に、今、この時にするべき事である。
悔い改めも、主の目に適う事をするのも、御前で悪である事を止めるのも、きょう、今、この時に開始すべき事であって、それらは明日あるいは「いつか」に引き延ばすものではない。
信仰生活とは、主と共に歩む「今」という時間の積み重ねなのだ。