メッセージ - 主は与え、取られ、また与える。主を信じるために。(1列王記17:17-24)
主は与え、取られ、また与える。主を信じるために。(1列王記17:17-24)
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- 執筆 :
- pastor 2016-8-15 17:30
主は与え、取られ、また与える。主を信じるようになるために。(1列王記17:17-24)
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『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。』(1列王記17:17-18)
ききんの時代、最後の食料をささげて預言者を養ったやもめは、尽きる事がなくなったその食料によって、自身も、息子も、生きながらえていた。
それなのに、子は病気になって死んでしまった。
生かすための奇跡が起きていた所に、死がおとずれてしまう。
彼女のみならず、私達も「なぜ」と思う。
なぜこのような事が起きるのか。
イエス様の言葉にヒントがある。
『姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。』(ヨハネ11:3-6)
イエス様は、愛しておられるラザロが病気であると聞いたのに、すぐに癒やしには行かず、あえて、なお数日滞在された。
それでラザロは、イエス様が行かないままに死んでしまうのだが、イエス様はなぜ敢えてそのままにしておかれたのか。
その答えは、以下である。
「それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」
主は、人の病や死、その悲しみを、何の感覚もなくただ見過ごしにされているわけではない。
主は、人が死に束縛され、死の悲しみに打ちひしがれている様を見て涙を流し、霊に憤りを覚えられる。(ヨハネ11:35)
主は「死」に勝利し、罪と死から救い出すお方である。
それを人々に知らしめるために、あえて、ラザロが死ぬ事をお許しになったのだ。
『イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。』(同25-27節)
イエス様こそ、よみがえりであり、命である。
これは文字通り「死ぬほど重要」な真理であり、これを人に伝えるため、敢えて主はラザロが死ぬ事を許されたのであり、やもめの子が死ぬ事もお許しになられたのだ。
人はたとえ、奇跡的に食料が与えられて生きながらえても、また、たとえ死んだ状態から生き返らせてもらったとしても、結局、死ぬ。
この、人が誰も逃れられない「死」の根本原因は、罪である。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)
やもめはエリヤに「わたしの罪を思い出させるためですか」と問うたが、人はまさにこの「罪」と「死」の問題を取り扱うべきであり、その事を教えるため、主は敢えて、あのような事を起こされる。
『エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。』(1列王記17:19-21)
彼女は、その子が病の間も、死んだ後も、その子をずっと「ふところ」に抱えていた。
彼女は息子が死んで、ようやくふところからその子を手放し、エリヤへと渡した。
自分にはどうにもならない、この問題に対処できるまでの信仰が無い、というような場合は、エリヤのような信仰の先輩に持って行き、祈ってもらうのが一番である。
『信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。』(ヤコブ5:15-18)
それ故、聖徒の交わりは大切だ。自分よりも信仰のある人、自分よりも義人である人に、祈ってもらう事ができるのだから。
『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイ10:41)
『主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。エリヤはその子供を取って屋上のへやから家の中につれて降り、その母にわたして言った、「ごらんなさい。あなたの子は生きかえりました」。』(1列王記17:22)
主は、エリヤの祈りに答えて下さった。
エリヤは必死に祈って、三度その子の上に伏せって、ようやく祈りに答えられたが、イエス様がラザロをよみがえらせる時はエリヤのようでなく確信に満ち満ちており、ただ、祈りを聞いて下さった事への感謝と、権威ある「命令」だけがあった。
『人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれたすると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。』(ヨハネ11:39-44)
エリヤのような信仰の先輩を頼りとする事は、確かに有用だが、最も有用な事は、完全なる主、イエス・キリストに直接お願いする事である。
奇跡的に生かされていたのに、奪われ、そして再び、主にあって取り戻す。
これら一連の事が起きるのは、神が遣わされた者は一体誰であるのかを、人々が真に知って彼を信じるため、そして、神の栄光が現れるためである。
『女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。』(1列王記17:24)
彼女はこの一連の事を通して、さらに深く知った。
エリヤこそ、まことに神から遣わされた人であり、彼をとおして為された事は、主のものである事を。
主は、私達が「信じるため」にも、色々な事を起こされる。
『わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、”あなたがたが信じるようになるため”である。』(同15節)
『イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、”イエスを信じた”。』(同45節)
『イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。”見ないで信ずる者は、さいわいである”」。』(ヨハネ20:29)
信じる者こそ、幸いである!