メッセージ - 目からうろこ(使徒9:10-19a)
礼拝説教メッセージ音声:目からうろこ(使徒9:10-19a):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「たちまち鱗(うろこ)のようなものがサウロの目から落ちて、見えるようになった。」(使徒9:18)
目からうろこということわざの起源は、聖書のこの箇所あらである。
他にも「笛吹けど踊らず」「豚に真珠」など聖書由来のことわざはあるが「目からうろこ」とはそれまで気付いていなかった意外な事、見えていなかった事が開け、その世界が広がる事である。
それまで目は見えていなかったサウロの目は見えるようになり、霊的な盲目状態もまた開けて真実が見えるようになった。
サウロはそれまで、神様に熱心だと自負して突っ走っていたが、実は盲目の状態でやみくもに走っていたのだ。
彼は主の弟子達を脅迫し殺そうという、間違った方向性で意気込んでいたため、主ご自身からの直接的な介入があったわけである。
古今東西、主の弟子達を迫害して燃えていた者は大勢おり、そのまま変わらず終わった人生もあれば、サウロのように変えられた人生もある。
変えられるには主の直接介入が必要な事もあるが、主からの促しに「応える」という、本人の側の決断と行動も必要である。
サウロは既に有名であったため、身に危険を招かないために、180度方向転換した事を隠してひっそり生活するという選択肢もあったかもしれない。
しかし彼は、主からの促しと与えられた召命に素直に答え、それまでの地位を捨てる道、命の危険を冒しても福音を伝える道を選んだ。
もし彼ほどの器の人物がひっそりと信徒生活を送る選択をしたら、主はきっと別の器を起こされた事だろう。
しかしそれなら、彼が新約聖書の大部分を書く事も、地中海世界を伝道して回り多くの魂を救う事も、朽ちるこのとの無い栄光の冠をいただく事も無かったであろう。
主からの促し、主の召命に応えるなら、大いに用いられ、朽ちない栄光をいただく事になるのだ。
アナニヤは使徒9章にしか出て来ないが、彼について分かる事は、彼はダマスコスに住み、主から特別な任務を頂いてそれに従順に従う良き聖徒だという事である。
彼は事前に、サウロという人物について詳しく知っており、サウロがダマスコスに来た理由も、どんな権威を祭司長から得ていたかも知っていた。
初代教会の情報網の細かさ、伝達の早さが伺える。
ダマスコスはガリラヤ湖の北にある町で異邦人が住み、ユダヤ人は比較的区別しやすく、故にキリスト者も比較的見つかりやすい状況だったと思われる。
キリスト者達は、あのサウロがそちらに向かったぞという事で多くは事前に逃げたと思われるが、それでもアナニヤはダマスコスに残っていた。
アナニヤには主から、サウロに手を置いて癒すという使命を託された。
もしサウロを知らない聖徒にこの使命が託されるなら、もっと楽な気持ちでサウロの所に行ったであろうが、主は敢えて、サウロを良く知っているアナニヤを召命した。
サウロは99.9999%改心は望めないキリスト者にとっての天敵だったかもしれないが、人の見方と主の見方は違うものである。
人の目からは不可能でも主には不可能は無く、改心するハズの無い者をも改心させ、主は栄光を表すのだ。
私達もアナニヤのように、目が見えず頑なな”うろこ”が付いている人の所に行って、うろこを取ってやるように遣わされる事がある。
アナニヤは相当嫌だっただろうし、私達も相当嫌だろう。
今から聖徒達を逮捕したり殺害してきた組織のアジトに行って、目が見えなくさせられているボスに手を置いて癒してやりなさい、と、主から言われるとしたら、私達も「あの人はちょと嫌です」と訴えたいものだ。
しかし、主は「行きなさい」と言われ、アナニヤはその言葉に従い、行って手を置いて癒した。
主に行けと言われるなら行くべきであり、主の言葉に従えば不可能は可能に、サウロはパウロに変わるのである。
主のなさろうとしている事はある時信じられないかもしれないし、私達にはとんでもない危険があるように見えるかもしれない。
しかし、主の促しに従うのであれば、大いなる祝福と恵みをいただくことが出来るのである。
サウロやアナニヤのように、主からの召命に忠実である皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。