メッセージ - サウルの密かな企みから守られるダビデ(1サムエル記18:17-30)
サウルの密かな企みから守られるダビデ(1サムエル記18:17-30)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
どういう性質が主の目に価値があり喜ばれるのか、ダビデという人物から学んでいると同時に、どういう性質が主に嫌われ退けられてしまうのか、サウルからも学んでいる。サウルは神の民の敵・ペリシテが打たれた事も、イスラエルが救われた事も喜ばず、ダビデが勝利し、愛され、主が共におられるのを妬み、恐れた。
このサウルの性質は、サタンの性質そのものである。サタンは元々は、音楽で主を褒め称える、極めて美しい天使だったが、分を超えて驕り高ぶり、神の王座に登ろうとして神に反逆し、天から落とされ、そして神の似姿として創られて愛されている人間を、妬み、滅ぼそうとしている。(イザヤ14章、エゼキエル28章)
サウルは、主のために、そしてイスラエルのために、自分が王座から退く考えは無く、自分がそれまで主の御声に反して来た事を悔いる事もなく、主に用いられているダビデをさらに妬み、殺意を募らせ、密かに彼の命を狙う行動に出る。サウルは、自分の娘・メラブを妻として与える代わりに、主(エホバ)の戦いを勇ましく戦いなさい、と命じる。その裏は、彼をペリシテ人の手で殺させよう、と思ったからだ。(17節)
サウルは確かに、部下に勇ましく「主の戦い」を戦って欲しかったろう。イスラエルに平和が来る事や、主の敵が打たれる事を望んではいたであろうが、彼がそれ以上に望んでいたのは、ダビデを抹殺する事だった。
それで彼は、主エホバの御名を用いて、策を弄するのだが、そのような策を、主が成功させるはずがない。
イエス様の名前を用いて、主の聖徒達を騙そうとする企みは、人の心を全てご存知である主が、覆えす。
ダビデはサウルの申し出を断った。自分は身分の低い者だ、どうして王の婿になれるだろう、と。そもそもダビデは、ゴリヤテを倒した時点で、メラブと結婚する事は出来ていた筈だが(17:25)、サウルはその約束を反故にしていた。ダビデは、その事を全く主張せず、ただ命じられるまま、部下を率いて戦って来た。彼は自分の身をわきまえていた。王族の身分は人の賞賛や推薦によるのではなく、主が与えて下さるものだと。
サウルやサタンは「高慢」という性質だが、その逆、謙遜こそ、主に喜ばれる性質である。『互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さる。』(1ペテロ5:5-6)
ペテロは、この箇所で勧めている。自ら進んで、委ねられた羊達を牧しなさい、それも、利得を求める卑しい心ではなく、権威をふるって大上段にではなく、むしろ群れの模範となりなさい、と。(1ペテロ5:2-11)
ダビデは元々、サウルの娘との結婚や、人々の名声などは眼中になく、ただ、「良き羊飼い」をずっと続けて来たのだ。ダビデに委ねられた兵士達を牧し、育て、権威を振るわずにむしろ群れの模範となって、誰よりも先に敵陣へ切り込んで行った結果、兵士達から絶大な信頼と人気を得たのだ。
羊のために命をかけて守り、養う羊飼いの性質こそ、イエス様の性質であり、主に喜ばれるものだ。
サウルは自分が言った事を土壇場で覆し、メラブを別の男に嫁がせる。メラブという褒美をちらつかせても、ダビデは中々死なない、むしろ勝利して、このままではサウル王権が危うくなる、と思ったのかもしれない。
しかし、もう一人の娘・ミカルがダビデを愛している事を知らされた事をサウルは喜んだ。彼女もダビデを死なせる事に利得できる、と思ったからだ。彼は元々、娘達の幸せは全く考えておらず、ダビデが死んでくれるなら、娘が未亡人になってもかまわなかったのだ。自分の保身・願望・欲望に心縛られてしまうと、永遠なる神の事も、家族の幸せも、見えなくなってしまう。速やかにその握りしめているものは手放すべきである。
サウルは兵を通してダビデに伝える。『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる。』(25節) サウルはこれで、ダビデが屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、と思ったが、主にあって、またダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は当然過ぎる事だった。ダビデは百どころか二百を獲て帰ってきて、そしてついにサウルは、娘ミカルをダビデに与える。
一国の王がいかに権威や金銀、人脈を背景に、少年を騙し陥れようとしても、主が守るなら守られ、その企みは決して届かない。たとえ本人を騙したと思っても、主は騙せず、主がその罠から助けだして下さる。
人は、身につけようとする。力を、地位を、お金を、謀の能力を。しかしそれら以上に求めるべきは、主に愛される性質である。なぜなら主は、主を敬わない王を退け、主を愛する羊飼い少年を守られるから。
主を愛し、主を敬う人は、敵が多いかもしれない。悩みも多いかもしれない。しかし主は、主を愛し敬う人の、その全ての敵や災いから守り、ちょうど良い時に、その人を引き上げて下さるのだ。