メッセージ - 主の憐れみを受けたときに学ばなくてはならない事(1列王記20:22-30)
主の憐れみを受けたときに学ばなくてはならない事(1列王記20:22-30)
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- 執筆 :
- pastor 2016-9-14 19:40
主の憐れみを受けたときに学ばなくてはならない事(1列王記20:22-30)
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イスラエルは本来、主から助けられるには全く値しないような、主に対して不誠実続きだったにもかかわらず、一方的に主からの恵みを受け、到底勝ち目の無いシリヤとの戦いは、勝利へと導かれた。
『時に、かの預言者がイスラエルの王のもとにきて言った、「行って、力を養い、なすべき事をよく考えなさい。来年の春にはスリヤの王が、あなたのところに攻め上ってくるからです」。』(1列王記20:22)
戦いは終わりではない、これからは主にあって何をなすべきか、主にあってどのような心構えでいるべきか、よく考えなさい、と、預言者は言う。
私達も、主に良くして頂いたなら、よく考えるべきである。
今後、自分は主に対しどのように在るべきか。主と共に、いかに歩んで行くべきかを。
いつも主の御前にどうあるべきかを、わきまえ知るために、知恵が必要である。
また、悪魔の攻撃は日々迫り来るものであり、誘惑との戦いも、ひっきりなしに来る。それに立ち向かうためにも、知恵が必要である。
知恵はいかにして見つけるべきだろうか。
知恵は、主を恐れる事から始まる。(箴言9:10)
私達には、主に対する「恐れ敬い」は、あるだろうか?
もし今、目の前に、総理大臣が来たとしたら、普段よりは身と心を引き締めるかもしれない。しかし主は、総理大臣よりもはるかに上に座しておられるお方である。
主を前にして礼拝する時、相応しい畏れ敬いは、あるだろうか?
もし、知恵を頂きたいのであれば、主に対する恐れ敬い、尊敬を、その態度で示すべきだ。
アハブは、「力を養い、なすべき事をよく考えなさい。」と言われたからには、一連の起きた出来事をよく思い返し、主は自分に何を望んでおられるのかを求めつつ、次の年の戦いに備えるべきだった。
主を待ち望む者こそ、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができるからだ。(イザヤ40:31)
『スリヤの王の家来たちは王に言った、「彼らの神々は山の神ですから彼らがわれわれよりも強かったのです。もしわれわれが平地で戦うならば、必ず彼らよりも強いでしょう。それでこうしなさい。王たちをおのおのその地位から退かせ、総督を置いてそれに代らせなさい。またあなたが失った軍勢に等しい軍勢を集め、馬は馬、戦車は戦車をもって補いなさい。こうしてわれわれが平地で戦うならば必ず彼らよりも強いでしょう」。彼はその言葉を聞きいれて、そのようにした。』(1列王記20:23-25)
シリヤは、自分たちが敗北した戦いを分析し、作戦を練りなおした。これは肉弾戦ではなく、背後にいる神が、勝敗の鍵を握っている、と。
しかし彼らは、イスラエルの神である主を、あたかも、数多ある神々のうちの一つであるかのように見た。
彼らの着眼点は非常に良いのだが、イスラエルの神に対する認識が誤っていた。
彼らは、思っていた。
地方地方には、固有の影響力を持つ神々がいて、それぞれ、得意分野・不得意分野がある、と。
現代日本人も、多くはそう思っているかもしれないが、あいにく、イスラエルの神である主は、「沢山ある神々のうちの一つ」ではない。
全地・全宇宙を創られた全能なる神であり、人の空想の産物である「神々」を、むなしいものとされるお方である。(詩篇97:9)
『春になって、ベネハダデはスリヤびとを集めて、イスラエルと戦うために、アペクに上ってきた。イスラエルの人々は召集され、糧食を受けて彼らを迎え撃つために出かけた。イスラエルの人々はやぎの二つの小さい群れのように彼らの前に陣取ったが、スリヤびとはその地に満ちていた。』(1列王記20:26-27)
再び戦いが起きるが、やはりイスラエルは、数では勝ち目はなさそうである。
しかし、主の言葉は、あらかじめあった。
アハブは、主をわきまえ知る時間が1年与えられていた。
その間、アハブはどんな心備えをしていたのかは書かれていない。もしかすると、全くしていなかったかもしれない。
しかし、この度の戦いも、ただ主ご自身が一方的に働かれる。
『その時神の人がきて、イスラエルの王に言った、「主はこう仰せられる、『スリヤびとが、主は山の神であって、谷の神ではないと言っているから、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを知るようになるであろう』」。』(1列王記20:28)
神の人からのこの情報は、イスラエルは別に知っていなくても、勝負の決定には関係無かったかもしれない。
しかし、この情報は、主がどんなお方であり、人はどのように神と関係して行くべきかを知るためには非常に重要な事柄である。
すなわち、神は、山の神や海の神など、人間が限定できるようなお方ではなく、全地を治め、全ての神々を見下ろし無とされる主であり、敵が陣営の中で思い巡らすはかりごとさえ、全て知っておられるお方であるという事、そして、主を見くびる者には主は災いをもって報いられるお方である事だ。
申命記で、モーセは、似た事を言っている。
『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:4-6)
主はなぜ、勝ち目のない敵をイスラエルに渡され、勝利をもたらされるのか。
それは「敵が悪いため」である。
何度も繰り返して言われている事は「あの者達が悪いから」「あなたが正しいからではない」という事であり、もし、イスラエルが勝利した場合は、「自分が正しいから」「自分の知恵や力のおかげだ」などと、思ってもみてはならない。
主はむしろ、あなたがたは頑なだ、主の前に強情だ、と言われる。
ただ、この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前からあの者共を追い払われるのである、と。
モーセの時代も、アハブの時代も、主の御前にイスラエルは、何の益も見いだせなかった。
むしろイスラエルは頑なで、主を煩わせる者達であったが、主はそんな彼らさえ、主の御名を置き、彼らの手を用いて勝利をもたらされるのだ。
だから、もし勝利がもたらされるとしたら、自分には何の誇りも無く、ただ主に栄光を捧げ、これからは主にのみ聞き従いつつ、歩むだけである。
『彼らは七日の間、互にむかいあって陣取り、七日目になって戦いを交えたが、イスラエルの人々は一日にスリヤびとの歩兵十万人を殺した。そのほかの者はアペクの町に逃げこんだが、城壁がくずれて、その残った二万七千人の上に倒れた。ベネハダデは逃げて町に入り、奥の間にはいった。』(1列王記20:29-30)
こうして、やぎの群れのようだったイスラエルは、十万もの相手を打ち破った。
さらには、城壁が崩れて二万七千人を打ったのは、まさに主ご自身だ。
主はこの度も、大勝利を与えて下さった。
これで、イスラエルはわきまえ知るべきだった。
自分はただ、主により頼んでいれば良いのだ、と。
しかしアハブは、残念ながら、主を知ろうという意欲がなかった。
私達は、何にもまして、知恵を得ることを求めるべきである
『それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。』(箴言4:5-6)
『あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。』(ヤコブ1:5-8)
とがめる事なく豊かに知恵を与えて下さる主に、求め、豊かに与えられ、主の栄光と共に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!