メッセージ - 主に聞かず、「おだて」に乗って、ほいほいと契約を進めてしまったアハブ(1列王記20:31-43)
主に聞かず、「おだて」に乗って、ほいほいと契約を進めてしまったアハブ(1列王記20:31-43)
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- 執筆 :
- pastor 2016-9-15 15:10
主に聞かず、「おだて」に乗って、ほいほいと契約を進めてしまったアハブ(1列王記20:31-43)
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主に対し罪ばかり犯してきたイスラエルは、主から保護されるような要素は一切無かったというのに、ただ、主の一方的な憐れみによって、勝てる要素の全く無い戦いに二度も勝利した。
アハブは、主に感謝しても、しきれない筈であり、その後はただ主に聞き従って、何事も主に相談して歩めば良いはずだった。
しかし彼は、自分勝手な道を歩み続けてしまう。
『家来たちは彼に言った、「イスラエルの家の王たちはあわれみ深い王であると聞いています。それでわれわれの腰に荒布をつけ、くびになわをかけて、イスラエルの王の所へ行かせてください。たぶん彼はあなたの命を助けるでしょう」。そこで彼らは荒布を腰にまき、なわをくびにかけてイスラエルの王の所へ行って言った、「あなたのしもべベネハダデが『どうぞ、わたしの命を助けてください』と申しています」。アハブは言った、「彼はまだ生きているのですか。彼はわたしの兄弟です」。』(1列王記20:31-32)
アハブは、「憐れみ深い王」という言葉と、ベン・ハダデの徹底的に低くなった態度に、気を良くしたのかもしれない。
それで彼は、決定的ミスを犯してしまう。
『その人々はこれを吉兆としてすみやかに彼の言葉をうけ、「そうです。ベネハダデはあなたの兄弟です」と言ったので、彼は言った、「行って彼をつれてきなさい」。
それでベネハダデは彼の所に出てきたので、彼はこれを自分の車に乗せた。ベネハダデは彼に言った、「わたしの父が、あなたの父上から取った町々は返します。またわたしの父がサマリヤに造ったように、あなたはダマスコに、あなたのために市場を設けなさい」。アハブは言った、「わたしはこの契約をもってあなたを帰らせましょう」。こうしてアハブは彼と契約を結び、彼を帰らせた。』(1列王記20:33)
アハブは相手を「兄弟」呼ばわりし、その者を連れて来て、自分の戦車に同乗させ、契約を結び、自由にしてしまった。
しかし相手は、そんな事は決してしてはならない相手だったのだ。
今まで悪どい事を繰り返しして来た者が、痛い目にあって、表面上へりくだって来たとしても、すぐさま気を許したり、こちらの懐を見せたりしてはならない。
イエス様が言われた戒め、すなわち、もし兄弟姉妹が一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたに来るなら赦してやりなさい、と言ったのは「兄弟姉妹間の事」であり、なおかつ、相手が「悔い改めます」と言って来た場合の事である。(ルカ17:3-4)
ベン・ハダデは兄弟ではないし、自分が悪かった事を認める言葉も、もう立ち向かう事はしませんという言葉も、一切言っていない。
実際、ベン・ハダデは解き放たれた後、イスラエルに町々を返さなかったし、再び戦争状態となった。
ベン・ハダデは後に、イスラエルを包囲して兵糧攻めにし、その時、イスラエル内は、母達が自分の子を煮て食べる程の飢餓状態に陥ってしまった。(2列王記6:24-25)
ダマスコの市場を解放するとか、契約とか、全くのうそ八百である。
彼は、恩を仇で返す事に何の躊躇もない、主の目に「滅ぼされるべき者」だったのだ。
契約において、買い物において、人間関係において、よく失敗してしまう人の性質は、アハブのように、主に相談しないで、「おだて」に乗せられたなら、ほいほいと契約ごとを進めてしまう人だ。
このように、口八丁手八丁を駆使して、守りもしない約束を連発し、憐れみを受けてもそれを覚えておらず、平気で約束をひっくり返して牙をむくような者は、いつの時代でも存在する。
洞察力のある人でなければ、見抜く事は難しい。
だからこそ私達は、何事も主に伺うべきであって、即答すべきではない。
特に、重要な決断をする時や、大きな買い物をする時、大きな契約をする時などは。
それに対し、当時の南ユダ王国の王・ヨシャパテは、いつも主に伺うたしなみがあった。
アハブはその後、ベン・ハダデに戦いを仕掛けようとして、ヨシャパテ王に一緒に行くように持ちかけた時、ヨシャパテは「まず、主のことばを伺ってみてください。」と勧めた。(1列王記22:5)
『さて預言者のともがらのひとりが主の言葉に従ってその仲間に言った、「どうぞ、わたしを撃ってください」。しかしその人は撃つことを拒んだので、彼はその人に言った、「あなたは主の言葉に聞き従わないゆえ、わたしを離れて行くとすぐ、ししがあなたを殺すでしょう」。その人が彼のそばを離れて行くとすぐ、ししが彼に会って彼を殺した。』(1列王記20:35-36)
「ともがら」を打つ事には、誰でも気が引けるし、憐れみを示したくもなる。
しかし、たとえ相手がともがらであっても、ベン・ハダデであっても、あるいは、自分のかわいい子であったとしても、打たなくてはならない場合がある。
特に、「主が」打てと言われる場合は。
その主の言葉に従わず、「下手な憐れみ」を示してしまうなら、やがて相手は「しし」に変わり、こちらを食い殺しにかかって来るからだ。
『彼はまたほかの人に会って言った、「どうぞ、わたしを撃ってください」。するとその人は彼を撃ち、撃って傷つけた。こうしてその預言者は行って、道のかたわらで王を待ち、目にほうたいを当てて姿を変えていた。』(1列王記20:37-38)
彼は、自分自身に傷を負わせてでも、主の命令ゆえに、王の前に出て主の言葉を伝えなくてはならない事情があった。
『王が通り過ぎる時、王に呼ばわって言った、「しもべはいくさの中に出て行きましたが、ある軍人が、ひとりの人をわたしの所につれてきて言いました、『この人を守っていなさい。もし彼がいなくなれば、あなたの命を彼の命に代えるか、または銀一タラントを払わなければならない』。ところが、しもべはあちらこちらと忙しくしていたので、ついに彼はいなくなりました」。イスラエルの王は彼に言った、「あなたはそのとおりにさばかれなければならない。あなたが自分でそれを定めたのです」。
そこで彼が急いで目のほうたいを取り除いたので、イスラエルの王はそれが預言者のひとりであることを知った。彼は王に言った、「主はこう仰せられる、『わたしが滅ぼそうと定めた人を、あなたは自分の手から放して行かせたので、あなたの命は彼の命に代り、あなたの民は彼の民に代るであろう』と」。』(1列王記20:39-42)
主の御心は、ベン・ハダデおよびアラム(シリヤ)を、滅ぼす事だった、というのに、アハブは彼を手放し、行かせてしまった。
主から、滅ぼし尽くすように、と定められたもの、例えば、自分自身の悪い習慣や、手くせ、悪いつきあいなど、それらを手放さなず、むしろそれらを自由に解き放ち、再契約してしまうようなら、今度は、自分自身が主に滅ぼされる対象となってしまう。
サウル王もそうだった。
主から「滅ぼし尽くしなさい」と言われていたアマレクを滅ぼし尽くさず、一部を惜しんでしまった故に、彼は王位から退けられてしまった。
それでサウル王も、アハブ王も、一致した運命を辿る。
すなわち、自分が滅ぼし尽くさなかったその相手から、逆に滅ぼされてしまう、という運命だ。
『イスラエルの王は悲しみ、かつ怒って自分の家におもむき、サマリヤに帰った。』(1列王記20:43)
アハブの、主からの言葉に対する対応は、不機嫌になって、激しく怒り、自分の所に帰る、というものだった。
これは、滅びが確定してしまう者の性質である。
イスラエルで最も偉大な王・ダビデの場合は、預言者から罪が指摘された時、「わたしは罪を犯した」と言ってすみやかに悔い改め、主に赦しを乞うた。(2サムエル12章、詩篇51篇)
主はそれで、ダビデから死を免れさせて下さり、彼は死なかった。
イスラエルで最も偉大な王と最悪な王との違いは、罪を犯す・犯さないの違いではなく、神の人から罪を指摘された時、自分の非を認めて悔い改めたか、それとも、怒ってそっぽ向いたかの違いであり、その違いが、私達を偉大にもするし、最悪にもする。
聞き従う事こそ、何にも勝るいけにえである。
そして背く事は、占いの罪であり、強情は、偶像礼拝の罪である。(1サムエル記15:22-23)
主の言葉を聞いて、不機嫌になるなど、とんでもない事だ。
人は罪を犯す。間違いも犯す。何が正しい事であり、どの道を行けば良いのか分からないものである。
だからこそ、主に聞く必要があるのだ。
ダビデのように、主を愛し、いつも主に伺い、罪を指摘されたらすぐ悔い改める、この偉大な王としての性質を身につけ、偉大になっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!