メッセージ - いのちの積立金とは(使徒9:36-43)
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韓国語通訳有 한국어예배
昨日はペテロによる中風の癒しについてだったが、今回は、死んだタビタを生き返らせる奇跡である。
昔も今も、病の癒しや蘇りの奇跡は、聖徒なら誰もが一度は切実に求め願う事であろう。
聖書に死人を蘇らせる奇跡は幾つか出てくるが、今回のように、ある人の死が多くの人達に悼まれ、蘇らせていただきたいと祈られた事は、他にも多くあったころだろう。
例えばステファノの死は、多くの人達に悼まれ、多くの聖徒達が彼の死体を囲んで生き返って欲しいと願ったであろうし、後に学ぶヤコブが殺害された時も、多くの人達に悼まれ、蘇らせて欲しいという願いが起きただろう。
彼らは蘇らなかったが、もし、彼ら程の働き人が蘇っていたのなら、今回のタビタ以上に、ユダヤ社会とクリスチャン達に大きな衝撃を与えただろう。
誰が癒され誰が癒されないか、誰が蘇らされ誰がされないか、なぜあの人には奇跡が起こりなぜこの人には起こらないか、とった議論は、我々のする事ではない。
いのちは主のもの、人がいつまで生きいつ死ぬかは、いのちの主イエス様が計っておられる。
私達キリスト者は、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬのみである。
病で死んで多くの人に悼まれ、蘇らせていただいたケースとして、ベタニヤのラザロがいる。
彼が病だと知らされた時、イエス様はこう言われた。
「この病は死に向かうものではない。神の栄光の為に、神の子がそれを通して栄光を受けるためのものである。」
しかもイエス様はそれを聞いて、よりによって2日もその場所に留まり、ラザロの所に到着した時、既に彼は亡くなっていた。
なぜイエス様はすぐに行かなかったのか。
生きている内に癒されたかもしれないのに、なぜそうしなかったのか。
それは、イエス様が私達に死ぬほど大事な事を教えるためであり、もしインスタントな癒しをしていたなら、人々はその大事な言葉を心に刻む事は無かっただろう。
皆さんにぜひ覚えて置いていただきたい事は、病が癒されるとか、死人が生き返るとか以上に重要な事があって、それはすなわち「イエス様こそよみがえりであり、いのちであり、彼を信じている者は、死んでも生きる」事だ。
タビタの場合、彼女を慕う者が多かったため、ペテロは呼び出された。
ペテロはその時、主に蘇えらせて頂けるかどうかは、知らなかった。
ここでもし蘇らせて頂けなかったら、ペテロからはもう聖霊が去った等と見なされ、評判は地に落ちるのだろうか?
そのような議論もまた無駄である。
いのちは、ペテロなど特定の信仰深い者にかかっているものではない。
いのちの主イエス様が計っておられるものであるから。
ペテロはとにかく聖徒達に促されるまま行き、ひざまづいて祈った。結果、いのちを吹き返したのだ。
かつてアナニヤとサッピラ夫婦は、サタンに心を満たし、聖霊を試みたため、死への奇跡が起きた。
聖徒達への配当をしぶったその偽りの代金が、死への切符となったのだ。
それに対しタビタは、生前愛を持って聖徒達のために捧げ施したため、いのちへの奇跡が起きた。
やもめ達への愛情と憐れみの篭った記念の品々がペテロに示された時、それがいのちへの切符となったのである。
そして、彼女は蘇らされ、多くの人達を主へと立ち返らせる記念の証となった。
私達も日常生活において、アナニヤ夫婦のように、心をサタンに満たして死への積み立てをするのではなく、タビタのように、聖徒達を愛し、心遣い、いのちを得るための積み立てをしたい。
昨晩、宮城沖で大きな地震が起き、そのために女川原子力発電所の3つある電源系統のうち、2つが止まり、一つの電源だけで稼動しているとの事。(4/8朝5時現在)
私達はその現状に対しても、直るか直らないかは詮索せず、いのちの為に祈るべきである。
現在、多くの苦しみ悲しみがあるが、皆さんについては、どうかいのちのために執り成し、いのちの働き人として生きますように。
そしてペテロのように、生と死の狭間に立ち、命のために祈る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。