メッセージ - ダビデとヨナタンから見る穏やかな者の幸い(1サムエル記20:1-23)
ダビデとヨナタンから見る穏やかな者の幸い(1サムエル記20:1-23)
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週報/メッセージ(説教)概要
苦難の内にある聖徒を主が助けられる時、主ご自身が奇跡でもって直接助けられる事はあるが、主にある兄弟姉妹の手を通して助けられる事が多い。それは助ける側も、助けられる側も、共に主のものであり、互いが愛し合う事によって、全ての人が、彼らが主の弟子である事を知るためである。(ヨハネ13:34-35)
前回、聖霊の直接介入によってサウル王から助けられたダビデは、信仰の友でありサウルの子でもあるヨナタンの所に行って訴える。自分にはどんな罪があって、あなたの父は私を追いかけるのか、と。(1)
この状況で知っておくべき前提知識は、この時ダビデは、ヨナタンさえも信頼していいのか分からない状態だった事だ。ヨナタンから聞いていた所では、自分はサウルを執り成し、もう安全だから戻って来なさい、だったのに、全然安全ではなく、ヨナタンに会う間もなく逃げた状態だった。情報交換する間も無いまま時間が経ち、もしや彼は父と共謀していたのでは、という疑心暗鬼が生まれ育っても仕方ない状況である。
サウルがなおダビデの命を狙う事について、ヨナタンはどういう立場にあるのか、探りを入れるためにそう言ったのであろうが、ヨナタンは答える。そんな事は絶対無い、父は必ず自分の耳に入れる筈だ、と。(2)
ヨナタンはどうしてこう、ちぐはぐな、脳天気な返事を返すのか。信仰の兄弟姉妹が、ちぐはぐな返事を返した時、相手を「人でなし」と決めつけて怒ったり責めたりするべきでない。ヨナタンの言葉を冷静に見ると、彼は、父サウルがダビデに槍を投げた事さえも知らなかった様子である。命の危険に晒され続けたダビデからすれば「なんでそんな事も知らないのか」と激昂しても無理はない状況だが、ヨナタンからすれば、父はずっとダビデに手をかけないという誓いを今まで守り続けてくれていた、と信じていたのではなかろうか。
もし二人のうち、どちらかが怒りをぶちまけ、「自分はこうだと言っているだろう」「いや私は和解させた、けちをつけるあなたが違う」と、自分の義を主張し、怒りの感情に心を注ぐなら、誤解したまま喧嘩別れしていただろう。それではせっかくの信仰の麗しい交わりが破壊されサタンの思う壺である。どれ程多くの信仰の交わりが、冷静になる事を怠り、サタンの罠にかかり、友情関係、夫婦関係、信頼関係が破壊されただろう。
『怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。』(箴言14:29 -30) 幸い二人には、怒りを遅くする「たしなみ」があった。
ダビデはヨナタンの父サウルを悪く言わず、むしろ擁護しつつ事実を伝え(3)、ヨナタンも短絡的なアドバイスはせず「あなたの言われる事は、何でもあなたのためにしましょう。」(4)と、ダビデに今必要な助けとなるよう申し出た。柔和な心と穏やかな言葉は、悪魔サタンの罠を砕く最善の武器である。神経を逆撫でするような、感情を害する状況や言葉に、穏やかに応対できる程の心のゆとりが与えられるよう、祈るべきだ。
サウルの王宮では月毎の例祭(民数記28:11-15)が守られていたが、ダビデはそれに出席しない事で、サウルに殺意があるかどうかを計ろうと提案し(5)、ヨナタンもまた、ダビデをかくまう事を主の前で誓った。
サウルが心配している通り、ダビデの存在は、ヨナタンが王になる事を脅かしているかもしれないが、ヨナタンはそんな事より、ダビデをかくまう事と、主の御旨が成る事とを選んだ。主にある兄弟姉妹というものは、世の栄華や地位、富よりも神の国のことを、兄弟姉妹を守る事を優先させるものであるが、ヨナタンの、主の御旨に従順する思いは、とても偉大なものであった事がこれら一連の事を通して明らかにされる。
『もしわたしがなお生きながらえているならば、主のいつくしみをわたしに施し、死を免れさせてください。またわたしの家をも、長くあなたのいつくしみにあずからせてください。主がダビデの敵をことごとく地のおもてから断ち滅ぼされる時、ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。』(14-16)
なんとヨナタンは、この時、ダビデに命乞いをしているような言葉をかけている。国家から追われ、命の危険が迫っているのは、ダビデのほうで、王子ヨナタンのほうが圧倒的に強い立場であるはずなのに。
ヨナタンは、信仰によって知っていたのだ。今のままでは必ずサウル家は没落し、ダビデが王になる、と。
今、ダビデはどんなに立場が弱く、風前の灯のように見えても主の御旨を行っており、サウルはいかに栄えているようでも主の御旨を損ねているからだ。実際、ダビデは王となり、ヨナタンの家に慈しみが施される。
ダビデとヨナタンの穏やかな受け答えは、破壊を締め出し、麗しい友情と、将来と、いのちを生み出した。
今、まことのダビデであるイエス様は、今の世でどんな風に見えたとしても、やがては世を裁く永遠の王として来られる。今、私達はヨナタンのように、信仰によって知るべきである。来るべきイエス様の王国に備え、信仰の兄弟姉妹を助け合うのだ。それによって私達が主に属する者達であると、明らかにされるためだ。