メッセージ - 悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
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- 執筆 :
- pastor 2016-9-21 17:50
悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
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アハブは再びエリヤと会合する。
『そのとき、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「立って、下って行き、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いなさい。彼はナボテのぶどう畑を取ろうとしてそこへ下っている。あなたは彼に言わなければならない、『主はこう仰せられる、あなたは殺したのか、また取ったのか』と。また彼に言いなさい、『主はこう仰せられる、犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめるであろう』」。』(1列王記21:17-19)
エリヤが主から呼ばれ、アハブと会うように言われたのは、アハブとイゼベルが共謀して義人ナボテを殺し、彼のぶどう畑を取り上げるために出かけるタイミングであった。
アハブはそれまで、主から、その身に見合わないほどの憐れみが与えられていたにもかかわらず、主に立ち返らず、また、警告を受けてもなお潔白な人の血を流し、その血塗られた地所を手に入れようとして出たその時、彼に与えられていた「主の憐れみの分量」は尽きてしまったのである。
『アハブはエリヤに言った、「わが敵よ、ついに、わたしを見つけたのか」。』(1列王記21:20a)
アハブ王はエリヤを見た時、会いたくない者に出くわしてしまったかのように、「敵」と評した。
しかしエリヤは別に、アハブに不当に危害を加えようとした訳ではなかった。
エリヤはただ、主の前で悪を行なってきたアハブに、何度も何度も警告して来ただけであったが、アハブは、言われても言われても聞かず、その故に諸々の天的な災難がアハブに起きて来ただけなのだ。
アハブはそんなエリヤを煙たがり、口うるさい男、不思議な奇跡を起こしてまでして自分を悩ます者、と、勝手な評価を下していたのだ。
『彼は言った、「見つけました。あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、』(1列王記21:20b)
原文的には、「あなたは、主の目に悪と見られるわざへと、あなた自身を売り渡したゆえ、あなたを見つけました。」となる。
悪のわざへと、自分自身を売り渡す・・・そう、彼はまさに自分自身を、そしてイスラエルの王権とを、イゼベルへと売り渡していた。
彼はイゼベルのアドバイスに従い、卑怯な手を用いてでも得られる「恩恵」に預かるために、彼女に言われるまま実行し続けて来たのだ。
私達も、サタン由来の悪しき意図のほうが御言葉よりも「得」だと思い、その体を売り渡し続けるなら、アハブと同じようなさばきを受ける者となってしまう。
アハブは、イゼベルを拒絶して、主に悔い改める機会は何度もあったのに、彼は結局、不当な利益を得たいがために、イゼベルに自分自身を売り渡してしまったのだ。
エリヤはそれで、主の言葉を伝えに行った。
『あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、わたしはあなたに災を下し、あなたを全く滅ぼし、アハブに属する男は、イスラエルにいてつながれた者も、自由な者もことごとく断ち、またあなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにするでしょう。これはあなたがわたしを怒らせた怒りのゆえ、またイスラエルに罪を犯させたゆえです。
イゼベルについて、主はまた言われました、『犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう』と。アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥が食うでしょう」。』(1列王記21:20b-24)
いよいよアハブに対し、彼の一族郎党は、ヤロブアムやバシャの家同様、皆殺しにされてしまう宣告が下された。
アハブは、預言者に対してもイゼベルに対しても、神に対しても悪魔に対しても、全部「イエス」と言って肯定するような、どっちつかずの態度を続けていた故に、結局、あっちに迷惑をかけ、こっちに迷惑をかけ、主の裁きを先延ばしにし、そうして多くの人々に長時間迷惑をかけた末に、イゼベルに加担して、ようやく滅びの裁きが確定してしまった。
本来なら、もっと前にその宣告が降されても不思議ではなかった。
彼がイゼベルに従った罪ゆえ、全イスラエルに3年半のききんを呼んだ時、彼は立ち返らなかった。
エリヤを通して大いなるしるしが起きた時も、シリヤが攻めて来て到底勝ち目が無かったというのにそれでも主の憐れみによって勝利した時も、アハブは主に立ち返らなかった。
主は本当に憐れみ深く、忍耐深い。
しかし、それら全ての主に良くしていただいた事をことごとく無視し、なお、主の目に悪を行なったのだ。
『アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。』(1列王記21:25)
アハブの心は、イゼベルよりは悪くなかったかもしれない。自分から進んで悪を行う性質ではなかったかもしれない。
なにしろ、ナボテに語りかけた言い方には、やさしい気配りがみられる。
けれども彼は、イゼベルに選択権や裁量を明け渡した故に、イゼベルの悪の報いはアハブが刈り取る事になってしまった。
「悪を行うことに身を委ねる」、それこそ災いな性質である。
『彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリびとがしたように偶像に従って、はなはだ憎むべき事を行った。』(1列王記21:26)
偶像礼拝を導入するアイデアが思いついたのは、アハブではなくイゼベルだったかもしれない。それでも結局、アハブの罪になってしまう。
歴代の王で、アハブより悪辣な者は、他に幾らでもいたかもしれない。
また、アハブには、民草を気遣う心遣いや、敵をゆるす寛容さも見られた。
しかし、どんなに心遣いや寛容さを為した記憶が、本人自身に沢山あったとしても、また、悪い事を実行した記憶は自身に無いとしても、悪い者に選択権を渡し続け、悪しき意図に同意し続けるなら、その悪辣な者の受けるべき報いは、自分自身に受け、その評判は「最悪」となってしまうのだ。
たとえ、心の中で「自分は悪くない」と思っていたとしても、自分のハンコを、悪用する人に委ねてしまうなら、そのハンコを用いて引き起こされたあらゆる不利な契約や負債は、委ねた本人の責となってしまうのは、この世の常である。
もし「なんで自分は悪い事をした記憶は無いのに、むしろ善良な心を貫いているのに、こんなにも人生、災い続きなのだろう」と感じるなら、自分の人生のハンコを、すなわち、本来自分が持つべき裁量権や選択権を「何者か」に委ねていないかをチェックすべきである。
もしかすると、その「何者か」は、何度も同じ過ちを犯す伴侶かもしれないし、もしかすると、それが「常識」と思っていた程に、無意識に浸透している事柄かもしれない。
たとえ本人自身の記憶に、悪い契約をした、という記憶が無かったとしても、「その者」にハンコを渡し、彼に取引や契約ごとを委ねるなら、悪いわざの報いを受ける事となってしまう。どんなに本人の心や体に、悪い事をした記憶が無いとしても。
『アハブはこれらの言葉を聞いた時、衣を裂き、荒布を身にまとい、食を断ち、荒布に伏し、打ちしおれて歩いた。』(1列王記21:27)
アハブは、エリヤが気に食わない事を言ったから彼を殺せと部下に命じるような事はせず、すぐに自らを低くする姿勢、悲しみを表す姿勢を取った。
彼は、エリヤの言葉を本気で受け止めたのだ。
そして主は、彼が食を断って打ちしおれて歩いた、その、わずかな悔いる行いを見逃さなかった。
『この時、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災を下さない。その子の世に災をその家に下すであろう」。』(1列王記21:28-29)
ああ、主は何と憐れみ深いお方だろう。
ほんのわずかでも、悔いる姿勢を見せただけで、アハブの生きている時にその災いを見るのを免れた。
実際、アハブ一族にそのさばきが行われたのは、アハブの孫の代だった。
結局、アハブのように、誰に対してもイエスしか言わず、ノーを言わない、その「どっちつかず」の性質の持ち主は、長い間周囲の人々に迷惑をかけ続け、最後には「あの人、なんとなく優しくて、特段悪い事はしなかったけれど、結局、最低だったね。」と評価されてしまうのだ。
私達の中から、アハブのような性質を取り除くべきである。
そして主に対してはいつも熱い思いで仕え、たとえ罪を犯したとしても、ダビデのようにすぐに、悔い改める心を持ち、いつも主に直接伺い、何をしても栄える皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!