メッセージ - イエス様というサインを互いに出し合うように(1サムエル記20:24-42)
イエス様というサインを互いに出し合うように(1サムエル記20:24-42)
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週報/メッセージ(説教)概要
ダビデとヨナタンは、互いに連絡が取れていなかった事で、誤解し合ったまま喧嘩別れしてしまう危険があったが、互いに自分の「思い込み」を主張せず、柔和で穏やかな言葉によって「分裂」という悪魔の策略に勝利した。私達もそのような心を持つべき事を、前回のサムエル記から学んだ。ダビデとヨナタンは、全て問題の元凶となったサウルの本心をあばくため、新月祭にダビデが「参加しない」事で、探りを入れる。
『ところがその日サウルは何も言わなかった、「彼に何か起って汚れたのだろう。きっと汚れたのにちがいない」と思ったからである。』(26) この言葉から伺える事は、サウルにはあたかも、ダビデを何度も殺そうと槍を投げたり、待ち伏せたり、遠くまで追手を遣わしたり追いかけて来た事が、一切無かったかのようだ。
このように、周囲の調和をひどく破壊し、人の心や体を傷つけ、さんざん迷惑を撒き散らしたというのに、それら一切を全く覚えていないかのように、何事も無かったかのように平然と振舞う人は、確かにいる。
そのような人は、悪霊が住みついている場合が多い。悪霊に動かされ発作的に破壊活動したとしても「自分がした」という意識や記憶が全く無いのだ。もちろん全部が全部悪霊のせいと言う訳ではないが、少なくともサウルのように御言葉に背き続け、頑なに罪を握りしめ続けているなら、明らかに「霊的な問題」である。
なぜなら悪霊の好むエサは、ガラテヤ5:19に記されている「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、その類」だからだ。これらを野放しにしておくと、悪霊に支配されるようになり、極端な”発作的行動”を無意識的にしてしまうようになる。
新月祭の二日目もダビデは不在だったので、サウルはヨナタンに尋ねる。どうしてダビデは今日もいないのか、と。ヨナタンはダビデの家の都合であると答えたが、その何気ない、わずかな言葉と共にサウルは豹変し、すごい剣幕でヨナタンを、そしてヨナタンの母さえ冒涜する「汚し言葉」を発した。(27-31)
「お前は心の曲った背く女が産んだ子だ、お前は自分の身を辱め、母の裸を露わにしている(原意)」と。
ヨナタンはただ、ダビデには都合あってこの食事の席に参加できない、と言っただけなのに、どうして突然そんな返答が来るのか、さっぱり理解出来なかっただろう。そのような人は、汚れた悪しき思いをいつも頭にぐるぐる巡らし、常人には到底連想できない考えに導かれ、些細なきっかけで爆発し、ぶちまけるのだ。
『ヨナタンは父サウルに答えた、「どうして彼は殺されなければならないのですか。彼は何をしたのですか」。ところがサウルはヨナタンを撃とうとして、槍を彼に向かって振り上げたので、ヨナタンは父がダビデを殺そうと心に決めているのを知った。』(32-33) 今度はなんと、自分の跡継ぎ息子である彼にさえ槍を投げた。
悪魔や悪霊に秩序を求めてはならない。彼らはただ破壊し殺す事が衝動であり、目的なのだ。
ヨナタンは彼自身のみならず、彼の母まで辱められたのに、ダビデが辱められた事をこそ憂いた。(34)
主にある兄弟姉妹とは、自分や自分の家族より、危機の中にある愛する兄弟姉妹を心配し、案じるのだ。
翌日、ヨナタンは野に出て、ダビデと打ち合わせたサインを送る。すなわち、矢を放ち、それを取りに行く子供に「矢はあなたのこちら側だ」と言うなら安全で、「向こう側だ」と言うなら危険である、というサインを。
『ヨナタンは子供の後ろから呼ばわって、「矢は向こうにあるではないか」と言った。ヨナタンはまた、その子供の後ろから呼ばわって言った、「早くせよ、急げ。とどまるな」。』(38-39) ヨナタンはダビデに、事態は最悪だ、早く遠くに逃げよ、と切に伝えたのだ。それは子供には分からない、有志にのみ分かるサインである。
迫害下の初代教会も、信仰の有志にのみ分かるサインで、互いの信仰を確認し合い、また危険を伝えた。
私達も信仰者が持つサイン、すなわち、イエス様というサインを互いに言い表し、真実を尽くし合うべきだ。
『彼(キリスト)についてこの望みを「積極的に抱き続ける者(原意)」は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。すべて罪を「意図的に犯し続ける(原意)」者は、不法を行う者である。罪は不法である。あなたがたが知っているとおり、彼(キリスト)は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。すべて彼に「意図して在り続ける者(原意)」は、罪を「積極的に犯そうとしない(原意)」。すべて罪を「積極的に犯そうとし続ける(原意)」者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。』(1ヨハネ3:3-6)
ダビデとヨナタンのようにイエス様という信仰者のサインを出し合い、悪に悪で返さず、善によって悪に勝利する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!