メッセージ - 主の特別な訓練で養われるダビデ、と私達(1サムエル記22:1-5)
主の特別な訓練で養われるダビデ、と私達(1サムエル記22:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要
ダビデはサウル王に追われ、妻の所にも預言者サムエルの所にも、親友ヨナタンの所にも居場所が無くなり、そして前回、主の宮の祭司にも、そして、汚れた者達さえも、頼りどころを見出す事は出来なかった。
主は、その愛する人を、敢えてそのように導き、ただ主とだけ向き合い、主をのみ頼るようにされる事がある。
アドラムのほら穴に逃げ込んで独りになったダビデは、人の間から頼りどころを探す事を100%止め、ただ100%、主こそ助けであると求めるに至った。彼はその時の祈りを、詩篇142篇に綴っている。彼は洞穴の中で声を出して主に呼ばわり、願い求め、彼の嘆きを注ぎ出し、悩みを露わにした。(詩篇142:1-2)
「わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。」(詩篇142:4-5)
イスラエルを導く王となるダビデの「右」には、誰も人がのし上がってはならない。ただ万軍の主以外には。
人の間から頼りをことごとく失ってしまった彼は、ついに、主だけが避け所だと悟った。「わたしを獄から出し、御名に感謝させて下さい。あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしの周りに集まるでしょう。」(詩篇142:7) ダビデがこの告白をした時、今度は、人々がダビデの所に集まって来る。
それまでダビデは、頼りとなる人を追いかけていたが、誰もいなくなり、ただ一人、主と向き合い、主のみを頼りとした時点が転換となって、今度は逆に、人々がダビデの傘下に入ろうと、彼を追いかけて来たのだ。
まずはダビデの家族が、そして、『しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々(原意:苦い魂を持つ人)も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。』(1サムエル記22:2)
ダビデは実に、キリストのご性質をよくあらわしている。キリストも当時の王や権威達からは迫害され、そして彼を慕い求めて来た人達も、当時、虐げられている人々や負債のある人々、苦い魂を持つ人達だった。
ダビデは今まで自分を救う事で手一杯だったのに、彼の所に虐げられている人、破産者、苦い魂を持った、一癖も二癖もありそうな人達が四百人も来て、面倒を見なくてはならなくなった。自分が誰かから助けられたいのに、なぜか、自分の所に助けを求めて人が集まって来るのか。実は、これが主の助けの方法なのだ。
人は、守るべき人、養うべき人を持つと、強く健全になる。そして、一癖も二癖もあるような人々を養い、彼らを正しく統率して行く経験は、一国の王となって行く上で、とても重要な訓練となって行く。
ダビデはそれまで、自分のいのちを救うために、真実ではない行動をして来たが、400人の長となった今、彼らの面前で、偽りの、恥ずかしい行動は、する訳には行かなくなり、真理に立つようになった。
『ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。』(1サムエル記22:3)
モアブは、ダビデの家ゆかりの地であり、彼らの大おばあさん・ルツの故郷であるものの、ペリシテと同じく、異教の神を拝する異邦の国だった。しかしダビデは、もはや媚びる事も偽る事もせず、堂々と「神が」自分をどのように導かれるか分かるまで、居させて下さい、と頼んで、それが許された。ペリシテの時と比べて、なんと堂々となった事だろう。主は正当に信仰告白をする人を守り、あらゆる便宜を図ってくださるのだ。
こうしてダビデ達は、しばし、ひいおばあさん・ルツのゆかりの地で、命の安全が確保され、400人の長としてある程度の人生を送る事が出来るようになった、と思われたかもしれないが、それは御旨ではない。
『預言者ガドはダビデに言った、「要害にとどまっていないで、去ってユダの地へ行きなさい」。そこでダビデは去って、ハレテの森へ行った。』(1サムエル記22:5) 彼はすぐ預言者の主の言葉に従順し、危険ではあっても、主の御心の地、イスラエルの地へと帰った。彼は主からの特別な任職の油を受けたからには、普通の人として漫然と生きるべきではないのだ。私達キリスト者にも、主からの聖霊の油を注がれたからには、漫然と生きるものではなく、御言葉に聞き従い、神の国の働きに参加し、働かなくてはならない。
ダビデは任された400人を養う内に、彼自身、イスラエルの王としての特別な素養が養われて行く。女王蜂はロイヤルゼリーという特別な蜜で育てられるように、ダビデには、誰にも与えられない苦難と、養うべき400人という、主の特別なロイヤルゼリーが与えられた。私達キリスト者も、「王族の祭司」(1ペテロ2:9)として相応しくなるために、他には与えられない、主の特別な御言葉のロイヤルゼリーによって養われるのだ。