メッセージ - 祭司の任命(ヘブル5:1-6)
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韓国語通訳有 한국어예배
祭司とは、神の前に立つことがらについて任命を受けた者である。(ヘブル5:1)
それは神の側から選び出された者であり、誰もが好き勝手になれるものではない。
4節「この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。」
ちなみに私は、この御言葉がパスターになるきっかけの御言葉だった。
社会人として働いていた時、バイブルカレッジの通信講座を受けていたものの、それは牧師になるためでなく、御言葉を掘れば掘るほど宝がざくざく出てきて、それが楽しくて仕方なかったからだ。
元々牧師になるような性格ではなく、牧師達のしていることを見ると、とんでもない、あんな事出来っこないと思い、働きながら主に仕えて行くものと信じて疑いもしなかったある日、ある預言の賜物を持った姉妹と出会った。
彼女と話しているうちに、なぜ牧師にならないの?と言われ、しかも、牧師にならなければ災いだとまで言われた。
私は理系人間なので、論理的根拠も無く断定される事にカチンと来て、暫くの間彼女とケンカになったものの、心の中には引っかかるものがあった。
そして天声教会で御言葉の奉仕をしていくうちに、心に引っかかっていたものは次第に燃え立たされて行き、
ある日、電車の中で「もし私がその務めに相応しいのであれば、はっきり分かる形で示して下さい。」と祈った。
その時、たまたま聖書を開いていたのだが、祈り終わった直後聖書に目を注いだその箇所が、ちょうどこのヘブル5:4だった。
私はとても驚いた。なにしろ、祈って一秒後に答えが示されたのだから。
その栄誉ある勤めは誰も自分で得るのではなく、神に召され、頂く物。
自分の何かではなく、神様が任命し召されるのだから、その勤めに与れるのだと知り、心がラクになった。
その言葉に促され、結構な覚悟はあったものの世の仕事を辞め、御言葉の勤めに与るようになった次第である。
神が任命されたまことの祭司イエス様を不服とする者達は、どうなるのだろうか。
モーセの時代も、コラと仲間達が、神様に任命された祭司に逆らった。(民数記16章1-5)
コラと仲間達の言い分は、イスラエル共同体全体が聖なるもので、主がその中におられるというのに、なぜお前達(モーセとアロン)は上に立とうとするのか、
あなたも私も聖なるもの、だったら俺達も祭司になって良いのでは、というものである。
モーセやアロンは好きで民の指導者や祭司になったのではなく、むしろ元々嫌々だった所を、主から召されたのである。
コラ達にとっては、エジプトのような所、すなわち色々な産物や世的な享楽に満ちている所が、彼らの「約束の土地」観であった。(民数記16:13)
つまり自分勝手に約束の土地のビジョンを思い描き、モーセとアロンは我々の思い描いたとおり動かない、だから反逆しよう、という考えであり、
自分の考え・自分のやりたい事を「神から示された事」として、祭司職を自己実現の道具として好き勝手したいのである。
結局彼らの立っていた地面の下が裂けて、家族もろとも大地に飲み込まれ、生きたまま黄泉に落とされる事となった。
自分勝手に聖なる職務に就きたいと願って、自分を指導者、神の立場に立ちたいとする者には、誰もが「天罰」と分かる恐ろしい裁きが襲うのである。
この時代、自称「祭司」が多く起こされ、キリストを通さなくても誰でも天国だとか、神は間から地獄なぞ無いとか、聖書の御言葉から人々を引き離し、人々に耳障りの良い事を神の言葉として惑わしている。
私達はそのようなニセ祭司、ニセ預言者達に対しては、コラとその仲間のように、誰もが「天罰」と分かる恐ろしい裁きが襲うよう、願うべきである。
それは決して行き過ぎではない。
主は「この小さなもののうち一人でも躓かせる者は、ろばの引く石臼に結わえられて海に投げ込まれるほうがましだ」と言われた。
人は自分勝手に、神の祭司、支配の座を分捕って指導者になるべきではない。
神の立てたまことの指導者、すなわちキリストに従うべきである。
神様の立てたこの指導者であるイエス様に、ますます繋がって付いて行く皆さんでありますように。
終わりの時代に出てきた、間違った指導者に付いて行く事が無いように。
イエス様の名前によって祝福します!