メッセージ - ヘブライ思考とは(ローマ12:1-2)
ヘブライ思考とは(ローマ12:1-2)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
明日よりコーエン大学日本公開セミナーが始まる。今回はコーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も教鞭を執られる。そこで今日、講義に先んじて、博士が繰り返し強調して来られた「ヘブルシンキング」と、ユダヤ的聖書へのアプローチ方法を学びたい。まず前提知識として知っておかなくてはならないのは、「ヘブライ思考」と、それと対極に位置する「ギリシア思考(ヘレニズム思考)」の概念と性質である。
ユダヤ人は代々「ヘブライ思考」で生き、聖書もヘブライ思考に基いて読まれて来たが、聖書執筆時代以降のキリスト教会は「ギリシア思考」によって歩み、福音に混ぜ物がされ、分裂の歴史を辿ってしまった。
ヘブライ思考の一番の特徴は、「神中心」である。対し、ギリシア思考は「人間中心」である。ユダヤ人は神を価値の最高位に位置づけ、自分を神の御言葉へと合わせて生きるが、対してギリシア思考では、人が構築した論理や科学を土台とし、あるいは神とキリストを除外した宗教や、無神論や汎神論を台頭させた。
第二のヘブライ思考の特徴は「関係中心」であり、神との関係・親子関係・共同体との関係を重視する。
ユダヤでは、「父と子」という深い関係が、神に、親に、共同体に対してある。対しギリシア思考は「個人主義」であり、親子関係・社会関係は崩壊し、孤立、引き籠もりが起こり、人を破壊行為や自殺へ追い込む。
第三のヘブライ思考の特徴は「直感的思考」だが、対してギリシア思考は「理知的・論理的思考」で「納得」を求める。ギリシア思考が聖書を理知的に分類し、分析して考察した結果、キリスト教会は幾つも分裂したが、対してユダヤ人は2500年も離散していたのに、1948年に帰還すると、いとも簡単に一致できた。それは彼らは聖書に自分の解釈を交えず、ただ繰り返し読んで、暗記し、直感的に体得していたからだ。
第四のヘブライ思考の特徴は「動的思考」である。ヘブライ語は動詞中心の原語である。ヘブライ語動詞は、基本的に三つの文字からなる「語根」で成っており、その語根の前後に他の語を付与する事によって、様々な意味へと変化する。ユダヤ人は、御言葉は生きているものとして動的に解釈し、同じ御言葉でも朝ごとに新しいが、対してギリシヤ思考は「静的思考」で、対象を分析・分類し、標本箱の中へ磔にして納めたら、もう動かさない。一つの御言葉に「これこれの解釈」と決め付けたなら、それ以外を排斥するのだ。
第五のヘブライ思考の特徴は「意味中心」である。ヘブライ語は人の名前にも地名にも、そして一字一句にさえ、全てに意味がある。それは昨年12月にベレシートを学んだ時によく味わった。文字と文字が組み合わさて意味が生まれ、個々の意味に配置された神の秩序の完全さに人は感動し、喜びを覚えるのである。ギリシア思考は一見、意味を追求しているように見えても、行き着く先は「無意味」である。
以上、5つの組み合わせを、カン博士は「ヘブライ思考のエバディング(embodying:具現、体現)」と呼んでいる。そして、ヘブルシンキングによる聖書へのアプローチは、3つの核によって成り立つ。
一つ目は「統全(wholeness)」と言う。これは全体を一つとして見る事である。つまり、聖書を開く時にはまず全体を見る。一語一語を細かく分析せず、分からなくても、まず最後までそのまま読むのだ。
二つ目の核は「統合(unity)」、すなわち異なる幾つかの断片を一つに集め調和させる事である。聖書は律法や預言、詩歌など異なる断片の集合だが、一つ一つを別者としてではなく調和したものとして捉える。
そして三つ目の核が「統摂(consilience)」で、それは、複数の個々は互いに溶け合い、第三の新しいものを生み出す事(シナジー)である。「統合」は個々が調和していても互いに別者だったが、「統摂」は、個々はもはや無くなり、別の新創造が生まれるのだ。元々、consilienceの原意は、異なる二つのものが互いに手を取り合って境界線を飛び越え、新しい領域に着地する「ジャンピング・トゥゲザー」の意味である。
以上のように、聖書全体を行ったり来たりして部分部分を集め、互いを融合し、自分自身に融合させる事によって、全く新しいいのちが生まれるのである。例えば「贖い」という言葉は、聖書の一箇所だけ見ても分からないが、創世記やレビ記、ルツ記など、あちらこちらを行ったり来たりする内に、神の意図が感覚的に分かって来て、自分自身の人生に組み込まれた「贖い」を感じ、感動し、自分のものとなって行くのだ。
『あなたがたの「からだ(ソーマ:霊・魂・肢体の全集合体)」を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1) 自分を主張するのでなく、自分自身の全てを生きた供え物として御言葉へ混ぜあわせる事、これが私たちの為すべき礼拝である。
ギリシア思考は捨て、ただ御言葉を自分と混ぜあわせ、真理の喜びが沸き起こる皆さんでありますように!